感性の違い

自分が理詰めの傾向があるので、因果関係に納得がいかないものやシュール、ナンセンスなものを読んでも、いまひとつおもしろいと思えないことが多い。

書き手の頭の中の思考回路と、私の感性とが合わないんだろうなと思う。

作者としては何かおもしろいと思って書いているのだろうが、

「で、何がおもしろいの?」

とか

「で、結論は?」

とか

「けっきょく何が言いたいんだろう?」

などと思ってしまい、その作品を楽しめないことがある。そういうものを書く人との感性の違いを感じると、その人の他の作品もほぼほぼ楽しめないことが多い。

敬愛する小松左京の小説論で、SFには大きく4つぐらいの分類があって、その中で私がもっとも好きなパターンは、

あくまでもリアリティのある事実や現実から始まって、微妙なずれが起こり、それが積み重なって、いつの間にか不思議な世界ができている(大意)

というものだ。いつしか自分もそういうものを書いてみたいと思っているのだが、前提として現実や事実があり、構築された物理法則や自然現象、社会風習、因果律などがあって、そこにアレンジを加えていくのだと思っている。

私にとって、前提がぶっ飛び過ぎているものが受け入れられないというのではない。そこに整合性があってリアリティが感じられればおもしろいと思う。

それが、個々の事象がバラバラでとりとめがなく、因果律も何も感じられないようなものの場合、読んでいておもしろみがなく、拒否感をおぼえるようだ。

奇妙なものが出てきてもいいが、あくまでも徐々に変わっていくのなら興味を持てるが、いきなり飛躍しすぎたらついていけないのだ。

私がシュール過ぎるものや単なるナンセンスに価値観を見いだせない、共感ができない、おもしろいと思えないのは、そういうものの考え方をしているからなんだろうなと思う。

単発の発想がおもしろいとしても、それをただ並べただけでは理解不能だ。リアリティのある表現、整合性、因果律をふまえて、飛躍しすぎないことが大切なのだと、私は思っている。

ただし、シュールな設定でもおもしろいと思えるものはけっこうある。個々の事象にリアリティが感じられたり、発想が莫迦げていても納得ができたりするなら、その作品は「おもしろい」と言える。

たとえば、最近ハマっているのは、山田しいたさんという人のnoteにあるシリーズ

なんかがそれかもしれない。最初の設定からぶっ飛んでいて、シュールなんだが、なんかおもしろいのだ。シチュエーションがすんなり受け入れられて、もっと先が読みたくなる。

この、【納得できる】というのは、いちばん重要なことかもしれない。いかに読者を納得させるか、これがおもしろいと思わせることにつながる。ただ、その納得の度合が作者と読者で違うのが、【感性の違い】によって左右されるのかなと思うのだ。こればかりはどうしようもない。

創作者としては読者100%を納得させるのは無理なので、せめて5割以上は感性が合う読者を作り出すことを目標にするのが好いのだろう。


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武蔵の国のオオカミ
ここまで御注視いただき、ありがとうございます。まだ対価をいただくほどの作品を挙げていないのですが、ご好意はありがたくいただきます。