読ませる文章とは
と聞かれて、おうおうにして勘違いしがちなのが、その対局にある
【読み手に負担を掛ける文章】
だと思う。内容としてはたぶん間違ったことは書いててないのだろうが、回りくどかったり、難解な表現を使ったり、解説のない専門用語を使ったりで書き手としては満足しているのであろうが、その書いた内容が伝わっているとは思い難い文章だ。
得てして物書きはそこに陥りがちである。
丁寧に説明しているつもりが、実はやたらにくどいだけだったり、「自分だけが思いついた(しめた! やった、やった!)」と勘違いしただけの“独特”な表現だったり、想定読者を間違った専門用語の連発だったりする。
これらを排除したものが「読みやすい文章」だということに異論はないであろう。
さらにその先の「読ませる」文章となると、書き手の側にも工夫が必要になってくる。
【読みやすいことば】
難しいことを簡単なことばに言い換えられる能力はとても大事で、それこそ、その物事に対する自分自身の理解力と表現力が試される。自分がわかってないことを他人に伝えるなんて無理なことだ。
だから、まずは、書こうとすることに対する理解力が必要になってくる。何を書くかによって、それは千差万別だ。そして、ふだんから簡単なことば、平易なことばで置き換える練習をしていないとなかなかできるものではない。
簡単な文章だから駄目なのではなく、簡単でも伝えたいことがすんなりと読者に伝わるものがすぐれた文章なのである。「読みやすい」文字列で書かれていてもまったく内容が伝わらないものがどれだけあることか。
ふだんからものを書く時に、
まとめる・縮める
言い換える・置き換える
ひきのばす・装飾する
の訓練をどれだけしているかが問われることだ。何気なく書くのではなく、意識してそれらの練習をしているのは、やがて自分の文章に大きく貢献してくれるだろう。
【独自表現】
自分だけが思いついた、独特の表現だと勘違いした場合、ついつい使ってしまいたくなるが、これが難しい。上述のように、おうおうにして相手に伝わらない自己満足で終わってしまうことが多いからだ。
しかしこれがうまくハマったら、
「おお、こういう表現もあるのか」
「おもしろいこというな」
「なるほど、そういうことか」
と読者に強い印象を与えられるし、それによってよりいっそう伝えたいことが伝わる可能性が高くなる。
自分の思ったことが伝わるかどうか、いちばん簡単なのは自分以外の誰かに読んでもらうことだ。相手が意図を読み取ってくれていたら、その独自表現は成功だったと言える。
では、ひとりぼっちだったらどうするか?
「寝かせる」ことしかないだろう。時間を置いて自分で読み返してみる。夜中に書いたラブレターを翌日に読み返して添削したくなる気分と同じだ。
どちらも、「何か自分がすっげえものを発見した」気分で書いているから、ホントにそうなのかは時間を置いてみないとわからない。
これができるかどうかで、「(自己満足にすぎない)独自表現」はかなり減らせるはずだ。
あと、独自表現にはもうひとつ問題があるのだが、次の項目と共通することもあるので後述する。
【テクニカルターム・専門用語】
想定読者を間違った場合に専門用語を連発しても伝わらないのは当然だ。書き手は一般常識として汎用的だと思っていても、それは作者の所属する世界観の中でのことであって、そんなものまったく知らないという読者がたくさんいるということを自覚しなければならない。
しかも書き手が生半可な知識で使っていたりすると、ますますわからなくなってくる。ここは上述のとおり、「言い換え、置き換え」をすることが望ましい。自分がちゃんと理解して、平易に表現することが、ここでも求められている。
また、法律書や技術書などに顕著なのだが、注釈を付けることがある。これを利用して、小説などでも「用語集」をつければなんとかなると思っている人もいるかもしれない。
そんなめんどくせえの、誰が読むか?
作り手の側としたら、時間を掛けて構想を練って何度も何度も使っているから理解していて当然。それを説明しているんだから読んでくれるだろう。
そんな幻想は捨てた方がいい。
家電製品を買った時に、マニュアルを全部読む人がどれだけいる? 中には読まずに使い始める人だってわんさかいる。
小説とかも同じ。用語集なんかは、ひととおり読み終わってから役に立つようなものであって、いちいちそんなの参照しながらストーリーを読むものなど滅多にいない。
作者は思い入れのある用語かもしれないが、読者にとっては初見でありなかなか理解できないものだ。
それを用語集や脚注的に説明しても頭に入らないのは当然。
“独自”のネーミングを考えついた自分はすっげえ
という、どこかで見たような落とし穴に見事に落ちてしまっているのだ。
ここで最初に戻ろう。わかりやすいことばで伝えることの応用だ。
ストーリーの中で、自然にその用語が理解できるように噛み砕いて描写をするしかない。しかも、不定期に何度も登場させ、読み手の意識を刺激してあげること。そのやり方を考えるのは書き手の資質にかかっている。
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このように、ついつい書き手のエゴに陥りがちなところをいかに修正していけるかが、「読みやすい」を越えた「読ませる」文章へとつながるのだ。
ここまで御注視いただき、ありがとうございます。まだ対価をいただくほどの作品を挙げていないのですが、ご好意はありがたくいただきます。