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震災発生その時品川で最初にしたこと。

今日は2021年3月11日。東日本大震災から10年経ったんですね。

同僚と話する中で思い出したことがあったのでメモとして、その日私がしたことを書いてみようと思います。

3/11 14:40頃 品川でデスクワーク中に震災発生

何のことはない普通の時間が流れていて、部下と一緒に新しく開発したWEB会議システムのテストを行ってました(今考えると中々先を行ってましたね)最初から大きな揺れを感じデカいと思ったあと揺れは強くなる。そして長い。真っ先に頭をよぎったのが停電でドアが開かない事態を避ける事。ドアを見ると事務スタッフのGさんがセキュリティ解除してドアを開放していた。彼女のとっさの判断に感激。

揺れが収まって、まずは部下の点呼と被害の確認。総務へ報告。

ラジオで状況確認。震源地も震度もあいまいな発表だったけどなんか東北・福島あたりだという事を理解。

部下のH君に同行して外出の予定だったので、準備を指示。

3/11 14:45分頃 最寄り原発の情報収集

まず最初にしたのが環境防災Nネットでの川崎東芝研究所の原発状況の確認
古い原発なので耐震大丈夫か心配だったけど異常値は見つからない。
ついでに東海、福島、女川各原発と東海村原子力施設も数値の異常はない。

環境防災Nネットは現在SPEEDIに統合。

ほっと安心したところで、部下のH君と会社を後に外出。

H君、おーかさん川崎に原発あるんですか!?知らなかった。とか、すごい揺れたなーと会話しながら最寄駅(りんかい線品川シーサイド)に向かうと駅員さんから電車は止まっているとの案内が。ではバスで行こうという事で都バスで品川へ。(この時はまだバスは運行していた)

3/11 15:00分頃 品川駅で余震に会う

品川駅到着前、バスの中では乗客のみんなが揺れたねー、びっくりしたねと話してる以外は普通の日常。数分の乗車で終点の品川駅バス停に到着。

ちょうど下車したときに大きな余震。

立っているのも大変な揺れ、目の前の品川インターパークのビルが「しなってる」!

この時頭をよぎったのが津波。日本の原発は海沿い、予備電源は地下。水に弱い。ちょっと水かぶっても電源なくなってカラ炊きになったらどれくらい持つだろう。

考えれば考えるほど不安に駆られ、外出をあきらめオフィスに戻ることに。

しかし、都バスは運行停止。徒歩で帰社することに。幸い徒歩圏内(とはいっても30分はかかる)だったのでH君と歩いて帰ることに。

この時間は非常にありがたかった。

歩きながら、何を調べ、何を指示するかまとめることができた事と、商店で必要なものを買いそろえることができたから。

3/11 16:00分頃 帰社、みんな不安そう。

オフィスに戻ると、みんなまだ仕事してた。そこで部下を集めて再度の点呼とさっき買った簡易カッパとマスクを配る。


全員唖然。え?雨降ってるの。なんでマスク??(まぁ無理もない)

交通機関が止まっているので徒歩で帰れる人は帰宅、帰れない人は会社に留まりましょう。(とりあえず飯は買ってきた)

カッパとマスクの理由説明。

もし津波が来たら原発が壊れる。原発が壊れたら放射性降下物が出るかも
とは言え、すぐ来るわけじゃない。風向きに気を付けてほしい

今回の震源地がまずい。原発の多くが震源地側。

日本の原発は団地みたいに密集してるからチェルノブイリより怖い。

ぶっちゃけフォールアウトは埃と一緒。吸わない事が一番。手や体についても洗い流せば大丈夫だけど、衣服に残るからカッパ着て、カッパ脱ぐ前に風呂で洗い流して脱いでほしい。

とりあえず原発が壊れなければ記念に取っておいて。保険だと思って。

想定される事故は、原発が壊れて放射能がむき出しになる事だけど余震も含めてまだ放射能出てないみたいだから今んとこ大丈夫。

だけど、原発はほかの発電と違って燃料を止めることができない。反応を止めることはできるけどそれには電気が必要。
いまは原発自体停電していると思う。自家発電あるけど地下にあるから津波が来たら止まる可能性がある。電気がなくなったら原発は反応を止められないから最悪爆発して放射能飛散ってなってもおかしくない。マジで。
電気が止まって爆発を避けるには原子炉の圧力を抜く作業があるはず。ベントっていうんだけど、それが始まって風向きが東京方向だったらマスクとカッパが必要になる。その時店に行っても間に合わない。だからマスクとカッパ持って帰ってください。

だいたいこんなことを話したと思う。

周りのセクションの社員は不思議な顔してたけど、まずは自分にできる範囲で誠意を尽くそうと思った。範囲を超えると何にもならないってことは骨身にしみてます。

3/11 18:00頃 帰宅

幸い、私のセクションのメンバーは近住者が多く帰宅し、在宅待機することに。(連絡は開発したてのWEB会議システムで行うことに)
車通勤のF君がGさん、H君、私を乗せて岐路へ。

しかし、大渋滞。カーラジオからは大分整理された状況が流れてきました。

・地震の規模はM9!考えられないほどの大地震だった事。
・15mを超える大津波が来た事。
・各地で大渋滞、交通はマヒしてる事。
・自衛隊の災害派遣命令が防衛大臣から出た事。

渋滞で進まない車の中、新しいニュースが・・

・19:30原子力災害派遣命令発出。

これはビビった。知識では知っていたけど本当に発令されるとは思ってなかった。しかし、車内は「?」な空気

自衛隊には放射能に対応する装備があって、それの出動命令って事と説明

全員:それって結構やばいんですか?

私:焦っても仕方ない。もし遠くに疎開できるのであればしてほしい。家族いる人とか良く話し合って。会社には言っとくので心配せんでいいよ。
うちのセクションはWeb会議で仕事できるから問題ない。

それにまだ深刻な事態ではない。原発には緊急停止システムがあって、電気なくても24時間くらいは持つと思う。その24時間以内に電気が復旧しなかったら冷やす水がなくなってカラ炊きになる。すると燃料が自分の熱で溶けて混ざって容器も溶かして穴が開いちゃう。胃潰瘍みたいに。そうすると原子炉の中は高圧で穴が開いたら放射能を含んだガスが出ちゃう。こうなると相当深刻だけど、今慌てて移動するほうが危ないと思うからまずは落ち着いて家のお風呂に水をためて、食料備蓄を確認してほしい。

そういって、一番家が近い私は下車しました。

2021年の今、当時を振り返ってみて

・悲しいことに原発事故が現実になってしまった。震災当日はあくまで発生リスクの低い可能性の一つと思っていた原発事故だったけど、発生前に周りの人にリスクを伝えることができて、結果変なデマに惑わされることなく生活を続けることができたのは良かったのかな?
特にベクレル、シーベルトなど普段聞かない単語、放射能と放射線の違いを事前に伝えることができたので「テンパらなかったっす」って後日言ってもらえたのはほんと良かった。

・2011年時点でWEB会議システム開発してた自分をほめたい(笑)。こんなものなんでやるの?という否定的な声もあった中、開発を承認、支援してくれた上司やメンバーのありがたさを今一度実感。

(おまけ)なぜ地震=原発事故とすぐ考えたか?

それは日本の原発は世界で稀な密集度と海沿いというリスクあるから。
そしてその事を知っていたからです。

是非はともかく、広島で生まれ育った私は原子力のエネルギーに興味をもっていました。

祖母の話では己斐から比治山まで(約2Km)建物が一瞬でなくなって見通せるほどだったっという原子爆弾。たしかに街にはその痕跡が沢山あります。

私の家は己斐(地図の1番左の川)に近い。
祖父の家は爆心地近く、京橋の隣の幟町
祖母の家は観音橋の近くの舟入みんな被災範囲。

原爆怖いというより、その構造に興味を持ちました。そして分かったのがたった60Kgのウランの1%が反応しただけ!そのエネルギー量に驚きました。

小学生の頃、学校での授業は退屈なものでした。もちろん平和は大切ですし戦争なんてもってのほか。しかし、原子爆弾は悪。というのは激しく同意ですが核は悪というのは納得いかない。まして原子力反対というのは原爆とは違う話のすり替えじゃんか!と感じてました。、純粋に技術としていいこともあるはず!と考えて原子力の平和利用を調べるようになりました。特に興味を持ったのが、原子力船むつでした。

瀬戸内海を見ながら育った私は船が好きです。その船が無給油でずっと走れたらなんと素敵だろうか・・本気でそう思ってました。

■中学生の頃(1986年)チェルノブイリ原発事故発生。とにかく調べた。

人災を指摘するものが多かったが、技術的なものを中心に調査。インターネット内当時、図書館にこもって英語と格闘。勉強そっちのけ(笑)

その時スリーマイル原発事故も知った。

アメリカ、ソ連のような大国で事故するんだから日本も絶対事故ると変な確信があった。BWR(沸騰水型原子炉)とPWR(加圧水型原子炉)があることを知った。

■高校1の頃(1990年)むつ海上公試実施。 わくわくが止まらない。

■高校3の頃(1992年)むつ航海終了。原子力船が普及すると期待した。

むつが初めて放射線漏れ事故を起こしたのが昭和49年(私が生まれた年)。そこから技術を高め、地球2周半以上原子力で航行したのはすごい。
(2020年原子力船「むつ」が船舶海洋工学会「ふね遺産」に認定された!)

■27才(1999年)本屋でたまたま立ち読みした小説

広島で勤務中、仕事で必要な資料を買いに本屋へ。ぶらぶら歩いていると気になるタイトルの本発見。

原発の異常発生からメルトダウン、行政の混乱や住民避難などの描写がリアルでフィクションってわかってても怖い。こんな事起こらないとは言い切れないわな。と感じました。
(今考えると、やばいくらいメルトダウン前の描写のすごさを感じます)

■26歳(2000年)島根へ転勤、近くに原発がある!

事務所から車で20分、約15Kmの所に原発があるとはびっくり(後に日本で初めての県庁所在地に立地する原発に)
この時IAEAが定めたPAZ,UPZという言葉を知る。うちの事務所はUPZ内
PAZ(Precautionary Action Zone:予防的防護措置の準備区域)
UPZ(Urgent Protective action planning Zone:緊急防護措置の準備区域)

■27才(2001年)本屋で一冊の小説と出会う。

たまたま立ち寄った本屋で見つけたちょっとラノベ風の小説。普段はまったくフィクション物に興味はないのですがタイトルが気になって手に取る。

まさにジャケ買い。ファンタジーだけど、原発事故とその後の描写、立ち入り制限地区での空き巣や避難者への差別描写が生々しく、原発から10Km地点で寝泊まりしてる環境で読むのはドキドキしました。
(今考えると、ファンタジーがリアルになっている。)

■32才(2006年)島根原発のプルサーマル計画について地区説明会多数開催。あまり反対派はいなかった記憶。技術的興味から数回原発を訪問。(日立のエンジニアさんみんな優しかった)

■34才(2008年)NHK放送文化研究所年報を読む

中部原発事故の報道を調べようとNHKの放送年報読んでました。これは毎年の原子力事故がまとめてあってわかりやすかった。
2008https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/2008/pdf/007.pdf

■35才(2009年)3号機建設中の島根原発を見学。
撮影NGだったけど生まれて初めてチェレンコフ光を見たときは感動で泣きそうだった。(写真は原子炉の蓋する前の様子)

参考:チェレンコフ光

この青い光を見てみたかったのです。

■36才(2010年)念願叶って東海村で仕事。

嬉しすぎて信号待ちで写真撮るぐらいでした。

幾つかの原子力関連事業者で仕事する機会があり長年の夢だった夢のエネルギー原子力に少しは近づけたかな。

近づくほどにリスクの高さもより鮮明に理解できるようになりました。
このころから技術的興味より人災要素、ヒューマンファクターに興味が出てきた。

■37才(2011年)福島での原発事故が発生。

危機はいつ起こるかわからないから危機(クライシス)。
そこには「想定外」って言葉は通用しない。想定できないのが普通だから。

(おまけ2)私が危機発生時に重要だと感じた事。

1、持続した危機意識
2、基礎となる知識
3、正しく行動する 

私が感じたのはこの3つです。

正しい行動は正しい(納得した)知識と倫理がもたらすと思う。
これらの事はまさしくOODAで示されている思考プロセスです。

けっきょく、日々精進がいちばん効果があるんだと改めて感じました。

事故、災害に限らず、クライシスは想定できないぞ。と捉えて、あきらめるのではなくリスク対策でクライシス発生を最小化するのはもちろん、クライシス発生時に行動できる意識・知識・倫理感を持てるよう日々を大事にしようと思います。

長文失礼しました。


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