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米澤穂信その5~「満願」

ネタバレしてます

今回は「満願」です。
「夜警」「死人宿」「柘榴」「万灯」「関守」「満願」の六つの独立した短編が入っている短編集ですが、実は短篇ってあまり好きじゃないんですよね。ということで、今まで未読でした

けれど、この米澤穂信の一連の記事を書くにあたって、ネットで何かを調べていたら、「満願」が直木賞候補にあがった際の選考委員のコメントが目に入ってきたのですが、その中の東野圭吾氏のコメントに驚愕し、すぐに電子書籍を購入して読み始めたのです……

「筆力には感心した。だが今回の作品集には、残念ながら矛盾や不自然な点がいくつかあった。最も致命的なのは『万灯』で、コレラについて完全に間違えている。コレラの主症状は下痢で、菌は便からしか出ず、しかも経口感染。通常、人から人へは感染せず、この小説のケースでも感染はありえない。」「もう一つ、『満願』の妻には借金の返済義務はない。(引用者中略)殺人の動機も成立しない。」

「満願」に対する東野圭吾氏のコメント

ほとんどネタバレになっちゃってるこのコメントですが、私、これ読んで、米澤穂信がよく調べもせずに書くなんてことあるんだろうか?米澤穂信という作家に対する認識を根本から変えなくてはいけないの?(ここまで米澤穂信の記事を書いてきたのに全部やり直し?面倒だなー)
と軽く落ち込みました。ところが、「満願」を実際に読んでみたら、逆に東野圭吾が指摘している内容にこそ疑問を持ったんですよ

【コレラについて】「万灯」

ここは完全ネタバレするしかないんですけど、まず最初に感染した男性(殺人の被害者)はぬるいチャイを飲んで経口感染。次に感染したのはこの人物の恋人と思われる女性なので、詳しくは語りませんが(笑)、経口感染している可能性大。もう一人は五歳の男児。この子はトイレで感染したと思われるのですが、便あるいは嘔吐したものに触っちゃって、その手を口に持っていったのかもしれません。
これがこのトイレで何人もコレラ感染者が出たというならまだしも、この五歳児たった一人だけ。
そして、最後に主人公。この人は最初の感染者に触りまくった(はずの)濃厚接触者です。一応、東京都感染症マニュアルには「ヒトからヒトへの直接接触感染はまれである。」って書かれていて、「まれ」というのがどの程度の割合なのかわかりませんが、東野氏が「感染はありえない」とまで強く主張するような話とは思えないのです。
しかも、この主人公はこの男を絞殺しちゃってるんですよ。もう、あちこち吐瀉物だらけでしょうから、主人公の顔にかかって、口に入っちゃっても不思議ではありません。本人も殺害時の感染を疑っています

全体として、米澤氏はコレラについて「完全に間違えている」どころか、コレラの経口感染という性質を理解しながらも、ギリギリのところでミステリとなるように苦慮した結果としか思えないのです。伝染病をわざわざコレラに選んだのは、空気感染するような病気だとミステリとして成立しないからなのも明らかです

なお東野氏は「菌は便からしか出ず」と書いてますが、国立感染症研究所のサイトには「感染者の糞便・吐物……」と明記されてます。
コレラと言えば、真っ先に「JIN-仁-」を思い浮かべる人も多いと思いますが、Netflixでドラマの「JIN-仁-」がちょうど配信されていたので、コレラのシーンを見返してみたら、大沢たかおも「患者の便や吐いたもの」と言っていて、医者でコレラについて熟知しているはずなのに、最終的に自分もコレラに感染しちゃってます。まあ、ドラマですが(笑)

【妻には借金の返済義務はない】「満願」

原則としては正しいのですが、「満願」の本文に妻が「連帯保証人」になってるってはっきり書いてあるじゃないですか。それとも、この記述は東野氏が指摘した後に米澤氏が書き加えたんでしょうか?
そんなわけないだろうと思いつつ、あまりに不可解なので、図書館に行って初版のハードカバーの「満願」を調べてみましたら、「連帯保証人」の文字は見つかりませんでした!

ということは、東野氏の指摘をふまえて、米澤氏は文庫版で「連帯保証人」の件を追記したのでしょう!そこまでする~?

当時の直木賞についてのコメントが全文掲載されている「オール讀物」2014年9月号も図書館で調べてみました。以下、東野氏の正確なコメントです(「満願」部分のみ)

『満願』の妻には借金の返済義務はない。そして問題の掛け軸は妻のものなのだから、借金の代わりに取られることも、差し押さえられることもない。だから殺人の動機も成立しない。

「オール讀物」2014年9月号

この件について、元弁護士のくぼさんという方がAmazonレビューで意見を書いてるのがとても参考になります

東野圭吾氏は、直木賞の選評において、満願の妻には借金返済の義務がないので殺人の動機が成立しないと述べられています。しかし、その指摘は正しいでしょうか? 私の経験上、日本人は法律上の責任がなくとも、仁義に基づいて子供や親や配偶者の借金を肩代わりするケースが多々ありました(法律上の責任で言えば、ヤミ金からの借金は元本含め一切返済する必要ありませんが、実際は返済する人も多いですよね? 東野圭吾氏の論理でいけば傑作漫画『闇金ウシジマくん』も成立しません)。また、自営業者が借金をする場合、妻も連帯保証人となる場合が多いです。満願においても、妻が連帯保証人になっているのかな、と私は解釈していました。確かに私も、「妻が連帯保証人になっていることを一文書き足せば、さらに完璧になるのに、米澤穂信氏ともあろうものが書き忘れたのだろうか?」という疑問は抱きましたが、「殺人の動機が成立しない」というほどの致命的なミスとまでは思いませんでした。

くぼさんのAmazonレビューより

物語の舞台は昭和四十六年(1971年)ですから、現在よりずっと「道義的責任」が重く見られていたことでしょう

殺された矢場という金融業者の社長は社員から「尊敬できる人じゃなかった」と言われ、利息目当てではなく、欲しいものを手に入れるために金を貸すことがあり、この男は骨董品集めが趣味なんだから、明らかに妻の所有する掛け軸を狙っていたとみられるんですよ。
そんな男に対して、いくら妻に法的義務はないと主張したところで、どんな因縁をつけられるかわかったもんじゃないという恐怖の方が大きかったでしょうから、この物語の殺害動機において、実は妻が連帯保証人であるか否かはほとんど重要ではないと思うのです

それに、金融業者としては、返済能力のない遊び人の夫に融資をする以上、「土地と建物はとうに銀行の抵当に入って」いるのだから、契約時に担保として保証人を要求するのは当たり前で、妻が保証人になっていたと書かれてなくとも、当然推測されるべきこととしか思えません。まして、金融業者の矢場は妻の掛け軸を狙っていたのでしょうから

普通に読解してたら、「連帯保証人」という文言はとくに必要ないと思うのですが、米澤氏が書き加えたのは、はっきり書いてあったほうがわかりやすいってことなんでしょうか?まあ、大御所に気を遣ってのことかもしれませんが……

そういうことなら、米澤氏はひょっとして「万灯」のほうもコレラ関連を書き換えたのだろうか?と気になって、初版と文庫版を比較してみましたが、ざっと読み比べたところ、少なくともコレラに関しては書き換えた様子はありません

「ホテルマンにでも病院に担ぎ込まれるようなことになれば――」から「ホテルマンにでも」という部分が削除されているのは発見しました。確かに、通常は救急車を呼ぶでしょうから、病院に担いでいくのは、ホテルマンではなく救急隊員ということになりますね

「万灯」についても、東野氏の正確なコメントをあげておきますと

 米澤さんの筆力には感心した。だが今回の作品集には、残念ながら矛盾や不自然な点がいくつかあった。最も致命的なのは『万灯』で、コレラについて完全に間違えている。これらの主症状は下痢で、菌は便からしか出ず、しかも経口感染。通常、人から人へは感染せず、この小説のケースでも感染はありえない。だから感染者が出た場合、最も重要なのは誰と接触したかではなく、何を食べたかだ。毎年何人かは患者が出るが、治療法は確立されていてさほど恐ろしい病気ではない。したがってマスコミが騒ぐこともパニックが起きることもない。この本の編集者や校閲は気づかなかったのか。

「オール讀物」2014年9月号

「万灯」は1981年の話ということになっているので、現代の感覚で書かれても……。
ネットで調べたところ、少なくとも1991年に「東京湾で捕れたアオヤギがその発生源としてマスコミで騒がれ、コレラパニックを起こした。」とのことなので、東野氏の「マスコミが騒ぐこともパニックが起きることもない。」という指摘は完全な誤りですから、米澤氏もさぞ困惑したことでしょう

東野圭吾って米澤穂信に対して何か含むところでもあるんでしょうか?
私も何冊か東野作品を読んでいて、「名探偵の掟」はよく覚えてないけどとても好きだった記憶があるので、今回の件で、ちょっとがっかりしてしまいました

私が「万灯」で気になったのは、コレラの潜伏期間中に検査した場合、必ず「陽性」が出るのだろうか?という点です。
仮に「陰性」になってしまうケースもあるなら、コレラの潜伏期間が「12時間から5日」ということらしいので、バングラデシュで感染したと主張することもできたと思うんですよ。
だからって、それが「致命的な」欠陥だなんて主張しません。主人公にそんな知識があるとも思えませんし

ということで、「満願」の中のどの短編もそれぞれ記憶に残る衝撃?があって面白かったです。
ただ、やっぱり短編っていうのは、キャラが深堀されてなく、アイディア勝負!みたいな点が、私の好みじゃないんですよね。もちろん完全に私の問題です。同様に映画もあまり好きじゃなかったり……
たったの二時間では、感情の動きが鈍い私のような人間はついていけなくて……

米澤穂信に関しては、すべての記事を書き終えてから公開しようと思っていたのですが、そのためには、まだ未読の作品を何冊も読む必要があって(これが想像以上に多かったんです)、ちょっといつになるか見当もつかない状態なので、とりあえず、その5まで公開することにします

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