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老人ホームだより:その3

老人ホームでの話、もうひとつだけ紹介します。これもちょっと重い話ですが・・・

小柄で陽気な70歳半ばのかわいいおばあさんがいた。
「いままで生きてきた中で、忘れられないことってなんですか?」
と尋ねると、突然下を向いて目にいっぱい涙をためた。
私はあわてて「ごめんなさい。悲しいことを思い出させてしまって」と謝ったが、
「いいんです。聞いてください。わたしは・・・・妹を殺したのです」
「ん? どういう意味ですか?」
「あんなに固く手を握っていたのに、逃げる途中で離れてしまったのです。わたしの家は向島にあったのです。焼夷弾で火事になり、無我夢中で妹の手をとり、学校の方へ向かって走りました。熱くて、熱くて・・・人が人の形で燃えていました。気がついたときは、妹はいませんでした・・・・」
私はそれ以上のことを聞く勇気が出なかった。背中を丸めて静かに座っているのに、膝の上では年輪を刻んだ手が、小さく震えていた。
あの大戦でいかほどの人が哀しい想いをしているか、思いを新たにした。

私の叔父も、ニューギニアで戦死した。
戦って死んだのではなく、餓死だった。
遺骨として白い箱が送られてきたが、中は石ころひとつだった。
祖母はその箱を抱いて肩を震わせていたことを、幼い頃の記憶として覚えている。

 日中戦争と対英米戦争による戦死者、つまり軍人、軍属は合計230万人。
本土空襲により一般邦人の死者80万人、合計310万人の日本人が死んでいる(63年厚生省発表)。
日本軍の戦死者の約7割が餓死、栄養失調にともなう病死である。
こんな戦いをしたのは、作戦本部から「食料は現地で調達せよ」という命令だった。