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津久井やまゆり園

この施設を忘れない。2016年7月26日の事件を絶対に忘れない。
健全者の化けの皮が剝がれたから。
子供が出来た時思うのは、「元気で五体不満足」であればどんな子供でも良いと思うだろう。

私は60代の身体障碍者です。長い間障碍者しているとこだわりか、どうか知りませんが、ディ・サービスやグループホームを聞くと拒否反応してしまいます。グループホームは障碍者が集団で生活をする場所ですね。グループホームは利用者を集めて、「絵を描いたり、体操したり、カラオケをしたり」するところだと思ってしまうのです。本当は違うかもしれないけどね。小さい頃から大人になってからも子供扱いやペット扱いされてきているから、そこからやっと抜け出したので年を取ったからそこに戻るなんて嫌なんだ。
他の障碍者はどんな気持ちなんだろう?いつまで経っても障碍者は健全者から何もかも与えて貰わなければ行けないのだろう?電動車椅子にしても、障碍当事者が考えたものじゃないのです。それからエレベーターもそうだし、スロープもそうです。健全者が考えたものです。それから作業所や特別支援学校や障碍者入所施設も健全者が作ったんだ。障碍者が別に作ってくれなんて言ったない。今も昔も障害者福祉サービスや障碍者機器は健全者が考えたものです。それが私は不思議なのです。何か健全者の施しで障碍者は生かされているような気がするのです。そういえば植松聖は重度障碍者は生きている価値がないと言っていたな。生産性がないから。重度障碍者はものを作り出せないかもしれない。けれど健全者の仕事口を作ってあげたんだよ。
健全者に感謝してもらいたいね。植松聖の仕事は何だとのかを考えれば分かるだろう。

私達は障碍者は存在してはいけないかもしれない。人間の進化論しても障碍者はいないし、自然界においても障害がある動物は生きていけないのです。
それが私達障害があるものなのです。医学は障害を無くす研究をしています。障碍があるものが運動を続けても人間社会は「障碍」を無くそうとしているのです。

だから「植松聖」のような人間が出てきたのは自然な事なのです。



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