京都の通りすべて歩く - 油小路通
5月某日実施。
このシリーズを行うときに決めたルールとして、「現在、通りの名前がついている場所はすべて歩く」と決めていた。これは、どういうことかと言うと、開発の過程で道が消滅していたり、逆に延伸したりしている場合があるので、現在その通りの名前が付いている場所をすべて歩くということなのである。
このルールがわかりやすく牙を向いたのが「油小路通」だ。
油小路通
系統としては、平安京から存在していた古いもので、平安京では「油小路」という名前。その名前の通り、昔の平安京に置いては「小路」として機能していたが、今では主要な通りとなっている。
『京都の地名由来辞典』によると、名前の由来は「さだかではない」とのことだ。
北は、紫明通より北で堀川通の1本左の道。鴨川中学校との突き当りから始まり住宅街を抜け、途中紫明通で途切れる。その後、上立売通で復活し、ただひたすら南へ。途中JRの線路があるが、ここで堀川通が消滅し、「油小路通」と合流。南は城南宮まで続くという説明の案内が多いが、地図を見る限り宇治川と当たるまで。
この計算でいくと、15km ほどあることになる。「南北の通りとしては最長のものである」と言い切っているブログ記事なども見るけることができた。
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起点は鴨川中学校との突き当り。なんの変哲もない平和な住宅街が広がっている。
途中に、とても滑りにくそうなデザインをしているすべり台のある公園を見つける。大人が滑るようではないと思うが、それでも、どんどんそこそこ危ない目にあって怪我をしてくれと言わんばかりのすべり台である。
紫明通で一旦道が途切れ、しばらく何も考えずに南下する。ここには、本法寺があり、表千家や裏千家と、茶道に関連する建物が並んでるようだ。後から調べてわかったことだが、ここは小川通ということで、後々再び行くことになる道なので、今回は詳しく調査しないことにした。
油小路通りの復活する、上立売通りの交差点には、銭湯が建っている。まだ昼前だったので開いていない。名前は「御三軒湯」という変わった名前のもので、そもそもこの銭湯が建っている地名が「御三軒町」という。
「御三軒町」の由来は、室町時代にさかのぼり、将軍を補佐する管領の職についた、「斯波(しば)氏」「畠山氏」「細川氏」の三家の屋敷があったかららしい。本来は御三家町だったということになるだろう。とのことだ。
(『京都の地名由来辞典』p67)
これは白峰神社付近で撮った写真になるが、油小路から出たばかり直ぐ側に書いてある看板なのに「堀川東入」となっている。間違っては居ないのだが、「油小路」から出てきたので、「油小路西入」となっていなかったことに、大いに混乱した。京都の住所難しいポイントである。別に近い方の道路を示すわけではないようだ。
お昼は、タベルトマル二条城 okatte という店で、ガッツリいただく。この店は、古民家を改造したような建物で、ゲストハウスが併設されている。
お昼休憩を済ませ、御池通まで足を進める。御池通には必ず通り名前を表す黒い板があって、自分はこれを「通モノリス」と呼んでいる。歴史の経緯なども書いてある面白い板なので、みんな読もう!
「ありがとう格致 (かくち)」 昔ここには、格致小学校があったようだ。今では統合されて存在しない。京都の地名が由来かと思ったか、「格致」というのは、中国の古典「大学」の「格物」「致知」という言葉から来ているもの。街を歩くと知らない言葉に出会っていく。
京都駅以南になってくると、街の外に出たのか。ガラリと街の雰囲気が変わる。隣にあった堀川通が、油小路通と合流し広い通りになった関係か、工業的な雰囲気を出してくる。
具体的には、各句ごとの、スペースの問題なのか、標語の看板がなんか怖くなったりする。
十条油小路までだ取り付くと、ここには任天堂が建っている! これが本社だと思って撮ったのだが、これは開発棟で、本当の本社はこの奥にあるらしい。この付近は既に工場街で、金属を回収してスクラップにする場所などがあり、轟音を立てていた。
これを超えると、街の雰囲気はさらに工業的な感じになってくる。シムシティで郊外に大きな道路と、工場街を作るような感じだ。
事前に仕入れていた情報だと、油小路通は「城南宮付近」で終わりとのことだった。しかし、城南宮を超えてもまだ「油小路通り」の表記が止まることはなかった。
結局、外環状線を超えても「油小路通り」の表記は消えず、足を進める必要があった。(この時点で足が結構痛くなっていた。)
で、結局宇治川を超えてしまった。
その結果がこれである。検証したところ、宇治川らへんで既に油小路通りは終了していて、洛南道路に変わっていた。宇治川を渡る前に最寄りの駅であ中書島駅に向かっておけばよかったのだが、うっかり橋を超えてしまい、住所は「向島」となってしまった。
広大な農地が広がっており、最寄り駅?の向島駅はこの写真だと白いビルみたいな点らへんにあるということになる。やってしまった。。3kmくらい農地を歩き、ようやく列車に乗ることができた。
なお、この広大な農地は、かつて「池」だったそうだ。巨椋池(おぐらいけ)という名前で、1933年の干拓工事が行われるまでは、漁業なども盛んであったそうだ。「向島」「中書島」というのは、この池における、島州の扱いであったそう。
(写真はWikipediaの巨椋池より引用 - パブリックドメイン)
というわけで余計に歩き、20kmほど。時間は休憩入れて5時間ほどかかった。
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