来し方(あるいは「これから」へと向かう母校の記憶について)
新年、あけましておめでとうございます。ただいま、帰省中。文字通りかけがえのない6年間を過ごした中高一貫の母校(以下、自森こと自由の森学園)の友達や教員とたくさん時間を過ごしている。
今、僕は、沖縄の大学に通いながら、自森時代に出会った「中野七頭舞」の継承に携わる人々とその継承のあり方について研究している。去年の9月には、岩手県下閉伊郡岩泉町へフィールドワークへ行った。自森生の時には、北上山地にいたる高い山々にさえぎられた遠い土地として憧れていたが、直接足を運んでみれば、東京や沖縄と違いながら違わない人々の「生活」があった。
フィールドでは、授業時間に中野七頭舞を筆頭とした岩泉町の芸能を教えている小学校も見学した。そこでは、岩泉町や各地域に生きる人として、教員や他の子どもたちと汗を流しながら踊りを踊っている子どもたちがいた。なかなか要領を得ない低学年の子に、じっくり練習に付き合う高学年の子。先生に指示もされていないのにあえて廊下を練習場所に選び、柔軟に練習に取り組む子たち。授業を終えると、あちらからしたら誰だかわからない僕に、ある子が自分からお辞儀をして「ありがとうございました」と挨拶してくれた。なんでこんなに積極的で大人っぽいのかと見守りの先生に尋ねると、「学校以外にも、週に2回は廃校寸前の分校で大人たちと一緒に芸能の練習に取り組んでいるからかもしれない」と話す。
小学校からの帰り道、少し泣いた。あの小学校の子たちは、大人の背中をしっかり受けとめて、「地域」を形づくる1人として頑張っている。一方、僕は小学校に良い記憶なんかほとんどない(小学校ではいじめられていたけど最近記憶が急速に薄れてきている)から逃げるようにして、不登校生や「普通」に違和感を覚える子がたくさん集まる自森に進学した。いろんな地域からやって来る友達や生徒たちの中の一人であることに安心して、自森を「地元」にしようと思った。でも、僕の地元・国分寺市には良い友達はたくさんいた。それでも、自分は地元に「友達」を見出そうとしなかった、むしろ積極的に忘れようとしていた。そんな自分の愚かさが、嫌だった。
フィールドワークから沖縄へ帰ってきて、指導教員とゼミを繰り返す中で言われたのは、「もう自分に地元はないことで悩まない方がいい。それはコンプレックスとして、人との向き合い方にも表れるから」という言葉。その言葉が、自分の身体にずっと響き続けている。「僕はここの人間ではない」という言葉ばかりを呪いのように言って生きることは、その土地や未来のことを「ナメ」ている。
そこで、大学に入学してしばらくしてから、自森の学園祭である子たちが立ち上げた企画に寄稿した文章をアップしようと思う。自森で過ごした時間を言葉にすることはなかなかできそうにないけど、この文章には自森で得たものがたっぷり詰まっていると思う(学校図書館や部活のこと、大江健三郎的な文体)。そういう意味で、どこから僕がやって来たのかをもう一度振りかえることにしたいと思う。そうしたら、少しは、勇気を持って小学校の頃のことにも向き合えるかなと思う。なにかに反抗して立ち上げた思いも、その「なにか」に根をはやしているのだから。
ある一高校で時間を過ごした人間の言葉として、この文章を読んでほしい。
結局、行くも帰るも居るも、旅。出会いなおしは、僕らの目の前に何遍も訪れる。
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「自分にとって自森ってなに?」と考えるのは、たぶん、今の自分にとって一番難しい問いだ。正面きって「で、結局お前ってなんなの?」と聞かれていることに近い。
最近、自森生という“安全圏”に立っている自分を、ときどき強烈に意識し始めた。それを思うと、どこまでも心地よく勇気が湧いてくる、どんなところにだって飛びこめそうだ。しかし一方で、どこまで行っても足元には“安全圏”がついて回って、自森にいるのと変わらない気がしてくる。「他人と出会うのは戦争みたいなものだから、命懸けである。」と、詩人の谷川俊太郎は言う。そんな他人たち(それは、ぼくさえも知らないぼくでもある)と、命懸けでいろんなことを繰り広げるための、どうしようもなく安心で喜ばしくて、孤独で苛立たしい安全圏。それがぼくにとっての自森だ。
そして、自森がぼくに与えてくれたのは、そのような戦争が終わった先にある “想像力”だと思う。
ぼくは、よく図書館に通った。在学中、ほとんどの時間を郷土芸能・民族舞踊部に夢中で費やしていたけど、ときには心底疲れる。自森で真っ正面に向き合えば向き合うほど、人との分かり合えなさにも気づいてしまう。そんなとき、ぼくは図書館で本を読んだり、隅っこの床で寝こんだりした。
ある日の夕暮れの図書館の隅っこで、ぼくは本当にくだらない本を読んでいた。それは遠藤周作の『ぐうたら生活入門』という本なのだが、人との分かり合えなさ、自分のどうしようもなさが、馬鹿みたいに誇張されあっけらかんと書かれている。特に、「人生どうせチンチンゴミの会」というエッセイを読んだときは、笑いを溢さないように必死だった。作者が闇鍋の会の誘いを受け、大人数で闇鍋をしながらどこにでもある石を褒め称えるという話。ぼくには、自森生とご飯を食べに行くときのことと、そのエッセイがどうしても被ってしまって大笑いしかけながら、心にかかった霜みたいな孤独感をほぐした。唐突に誘われ、夜ご飯や焚き火のために集まった自森生たちは、なにをしでかすかわかったもんじゃない。
すると、ぼくの座っている前の方からひょっこり顔を知ってる高三が顔を出した。ちょうどぼくは、コの字形の空間の真ん中に座っていたから、彼は真正面でぼくを見ている。ぼくは、いつもはヘラヘラしているのに今や陰気な時間を過ごしているぼくを意識して、顔を真っ赤に染めかけた。すると、彼はふらりとどこかに行き、本を手にとって、彼もまた隅っこの方で本を読み始めた。そのときぼくは、ああ、ぼくに孤独感を抱かせているのはぼく自身なんだ、と思った。ぼくはぼく自身を定義してしまっている。
自森の図書館に入ると、さっきまで大声でふざけ倒していた人も、なにか抱えこんでタバコに逃げこんでいたあいつも、行事のことで走り回ってばかりな彼女も、しずかな顔をして字の世界に身を委ねる。そんな人たちを見ていたら、誰かのことを決めつけて勝手に呆れることはおろか、自分で自分のことを限ってしまうのもつまらないと思えてくる。
そして、ぼくは、とうとう高校三年生も卒業する直前に、自分が抱えた自分を放出した。中国舞踊部・民族舞踊部・郷土芸能部の合同発表会の総合リーダー、学習発表会では詩の展示、太鼓と盆踊りの発表、朗読の発表、選択自然のスピーチ、秩父屋台囃子などなど、自分にも手に負えないほどの自分を発揮して、スッキリした。
学習発表会では、同じ場所で一緒に学んでいる人たちの一年の学びの成果を見て、刺激を受ける。そしてそのとき、ある人が持つ多くの顔を知り、同時に、自分の知らない自分をも知る。そのことはきっと、発表を見る側だけでなく、発表する側も経験する。
ぼくは、特に学習発表会でそれを意識した出来事がある。ぼくは、「発露」という詩の展示を、高校棟3階の壁画前で行った。ぼくがコロナ禍のときから学習発表会までに書いた詩を、壁に貼ったり、クリアファイルにまとめて展示した。多くの自森生と保護者たちが、ぼくの詩をじっと読んでくれた。その中には、一時間半ほども展示を見てくれる人もいた(2021年2月の学習発表会はコロナ禍のために、見に来れる人を限りつつ行われたのだった)。
学習発表会の最終日の夕方、ぼくは詩の展示ブース前の廊下を歩いていた。すると、クラスメイトのKが、ぼくの展示を、腕を組みながらじっと見ていた。ぼくは、学習発表会の数日前、Kが彼の友達に「俺は学習発表会なんか行かない」と言っていたのをはっきり聞いた。あれ、と思った。
Kは、すこしシニカル(冷笑的)な性格だった。社会の授業中、Kは先生の目の前で社会学系の本を読む。授業ごとに配られるコメントペーパーの紙にも、彼のシニカルなコメントが刻まれている。「人間が滅びればすべて解決するんですよ!」。ぼくがLHRをしきるとき、スマホをいじっている彼に意見を振ると、「え、俺に?」とニヤッと笑いながら避けようとする。だから、彼がぼくの詩と一生懸命対峙してくれていることにびっくりした。
ぼくはKに近づいて、「ぼくの詩、読んでくれてるんだ。」と話しかけた。Kは少し驚いて、あいかわらずニヒルに笑いながら、まあねえ、とつぶやいた。
「るかって、こんな詩が書けたんだ?俺も、こんな風に書いてみたいよ。」
Kは、ぼくの詩を見やりながら、言った。ぼくは、これまで感じたことのないあたたかさを感じた。手をギュッと握られもしていないのに、彼の言葉に帯びた熱を感じる。Kは彼の知らないぼくを見るだろう。そして、ぼくはぼくの知らないKを見る。詩を書くために言葉を尽くしてみたいけど、もどかしそうなKの表情。詩にはならなくても、Kの心の中にも、言葉にしたい思いやイメージがしっかりとあるのだ。自森では言葉の非真実性ばかり叫ばれるが、今、ぼくは言葉の核にあるものに触れた、と思った。
ぼくは、「Kもきっと詩が書けるよ!Kはよく考える人でしょ?」とKに言った。するとKは、「いやあ、こんなにほんとっぽくは書けないよ。」と照れながら顔を俯けた。ぼくは用事があってすぐにその場を後にしたけれど、その後もKは展示を見てくれていた。
Kの心の中にも、きっと、Kだけが持つ言葉がある。誰の心の中にも、その人だけが持つ言葉がある。Kの発した言葉の熱から、ぼくはそう教えてもらった。
すごくあたり前なことばかり書いてきたかもしれないが、ぼくらはときどき、目の前にいる人間がその通りではないかもしれない、ということを忘れてしまう。誰でも、人に見せない、もしくは本人さえも気づいていない一面というものがある。誰にも知られない時間というものを過ごす。その人は今、自分の知らない場所で泣いているかもしれないし、笑っているかもしれない。そのことを忘れて、ぼくらは互いを勝手に定義ばかりして、自分自身をも強く定義してしまう。
だから、そんな病んだ定義をもう一度ほぐすために、「誰にも知られないその人というものがあるかもしれない」と繰り返し想像してみる。そうしたら、どうしても辛い日に、ぼくらはあるがままのぼくらを認めて、静かに眠れるようになるかもしれない。
ぼくは今、沖縄県で一人暮らしをしている。沖縄でさえもすっかり寒くなった夜に、大学の友達の家へ遊びに出かける前、こんな詩に出会った。
目の前に一人の人間がいる。その人の内のしいんとした湖を想像する。ぼくは、そんな想像力を自森で得たと、書きつつ確信した。
湖の水は、絶えず蒸発し、雲となって、また湖へ雨を注ぐ。絶えず流動して変化しているように見えても、根本的には共通していることが多い。それは、きっと自森が変わりつつあるように見えるときもそうだ。
ただ、湖の水は、ときにわけもわからない方向へと湖水を押し流し、細い川を作る。そして、別の水へと繋がっていく。ぼくはわけのわからない方向に向かって、自森生として生きてきた。そうして、卒業したあとを振り返ると、これまでなんとも思えなかった出来事さえも、大きなことにつながっていたと気づく。だから、ぼくら36年間を生き続けた自森生は、きっとわけのわからないまま進んで、ときどきふりかえりながら自森を作ってきたのだ。そんなふうにこれからもやっていけば、自森はどこまでも面白くなっていくのだと思う。というか、今このとき、自森はこれまでと比べようのない方向で面白くなっているのだと思う。しいんとした湖を各々持ったまま、細い川を頼りに互いに繋がりあって、わけのわからない方向へ奔流していこう、ぼくら。