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緋色病 第三章

 ついに明らかになる緋色病の全貌。私はホラーや気味の悪い話は大丈夫、というよりかなり好きなほうですが、猖獗を極める伝染病の描写を英日で読み込んでいたらクラクラしてきました。コロナがこんなんでなくてよかった・・・今のところは。まだ。ロンドン渾身のクライマックス、日本語で味わっていただけたら幸いです。

(写真:緋色の落ち葉と朝露)

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 老人は垢じみたこぶしで涙をぬぐうと、かん高い震え声で話を再開した。物語が佳境に入るにつれて、その声は力強さを増していった。「疫病が起きたのは2013年のことだ。わしは27歳で、今でもその時のことをはっきりと覚えている。無線速報が届いてーー」
 ヘアリップがうんざりして唾を吐くと、おじいはあわててやさしく言いかえた。

 当時は何千マイルも離れたところの人と空気を通して話ができたんだ。そうして届いた報せによると、ニューヨークで妙な病気が起きたという。アメリカでもっとも壮麗な都市・ニューヨークには、1700万人の人が住んでいた。最初はだれもそのニュースに無関心だった。大したことはないとだれもが考えていた。その時は数人が亡くなっただけだったからな。しかし、感染者はあっという間に死んでしまったらしい。感染の初の兆候は、顔と体全体が赤くなるという。それから24時間後に、今度はシカゴで最初の感染が報告された。それと同じ日、今度はシカゴに次いで世界第二の都市ロンドンが、二週間ひそかにこの病気と闘っていて、無線速報が検閲されていたことがわかった。検閲というのは、ロンドンで疫病が起きているのを、世界のほかの場所に知らせないことだ。深刻な事態のようだったが、カリフォルニアでもほかの州でも、警戒するものはいなかった。みんな、専門家が新しい菌を今回も克服してくれると思っていた。それまでにも多くの菌をやっつけてきたようにだ。

 問題は、この菌にかかった人間が驚くべき早さで死に、しかも感染したら最後決して助からないということだ。たとえば昔は、アジアコレラというものがあった。ある晩なにごともなく夕食を共にした人が実はアジアコレラにかかっていて、翌朝その人が死体運搬車に乗せられていたということがままあったらしい。しかしこの新型の疫病は、それよりも早かったーーもっと、ずっと早かった。最初の兆候が出てから死ぬまで、たいてい一時間しかかからない。数時間もつ者もいれば、顔が赤くなったと思うと10分から15分でこと切れる者もおった。

 どうなるかというと、まず脈が速くなり、熱が出る。それから緋色の発疹が、野火のように顔と体全体に広がる。本人は普通、体温が上がるのと脈が速くなったのには気づかない。だから自分が病気にかかったと知るのは、赤いぶつぶつが出てからだ。湿疹が出ると同時に、普通はけいれんが起きる。が、けいれんは長く続かず、程度もひどくない。けいれんが引いたあとも息があった場合、患者はすっかり静かになる。感じるのは、つま先から素早く広がる麻痺だけだ。最初に感覚がなくなるのはかかとで、それから脚や腰がしびれて、心臓に達すると死ぬ。うわごとを言ったり意識を失ったりはしない。心臓が麻痺して止まる瞬間まで、頭はしんと冴えているのじゃ。もう一つ奇妙だったのは、遺体が分解したことだ。罹患者が死ぬと、その体はバラバラに崩れ、またたく間に溶けて行く。疫病があんなにも早く広がった理由はここにもある。死体がどろどろになると、何十億もの緋色菌がたちまち辺りに広がったからな。

 また、専門家もそのために細菌と闘う術がなかった。研究室で病原菌を調べている最中に、彼らはバタバタと倒れて行ったんじゃ。まったく、ヒーローとはあの人たちのことだ。彼らが死に絶えると、すぐにほかの者があとを追って研究を続けた。病原菌の分離に最初に成功したのはロンドンの医師だった。このニュースは電報でたちまち世界中をかけめぐった。名前をトラスクといって、30時間もすると彼も犠牲になった。各地の研究室で病原菌を退治する薬の開発が進められたが、どんな薬も効かなかった。問題は、患者の体はそのままで病原菌だけを殺す薬、つまりワクチンをいかにして作るかだった。彼らはほかの細菌を使って緋色菌を殺そうとした。緋色菌の敵である細菌を患者に与えてーー

「だけどそのサイキンは目に見えないんだろ、おじい」ヘアリップが口をはさんだ。
「おじいはサイキンがそこにあるようなデタラメな話をずうっとしてるけどさ、本当はそんなものどこにもないじゃないか。目に見えないってことはつまり、ないってことだ。目に見えないものを目に見えないものでやっつけるだって! 昔の人たちは大バカものだ。だからみんなおっ死んだんだ。そんなうそっぱち、おれは信じないね」

 おじいはこれを聞くと、しくしく泣き始めた。エドウィンがあわてておじいをかばった。
「おまえだって目に見えないものをいろいろ信じてるじゃないか、ヘアリップ」
ヘアリップは首を横にふった。
「おまえは死んだ人が歩き回るって信じてるだろ。でも死人が歩いているのを一度も見たことはない」
「去年の冬、おやじとオオカミ狩りに行ったときに見たよ」
「水が流れているところを渡るときにだってツバを吐くじゃないか」
「悪い運をおいはらうためさ」ヘアリップは弁解した。
「じゃあ、悪い運を信じてるんだろ?」
「もちろん」
「だけど、悪い運を見たことはない」エドウィンは勝ち誇って切り返した。
「おじいのサイキンの話と同じことだ、目に見えないものをおまえも信じてるんだから。おじい、もっと話してよ」

 言いまかされてしょんぼりしたヘアリップは口を閉じ、おじいは思い出話を続けた。もう疑問にはいちいち答えなかったが、話は孫たちの言い争う声でしょっちゅう中断した。少年たちは、老人のあとを追って今はもうない未知の世界に分け入ろうとしながら、お互いに低い声でひそひそと質問したり、憶測を交わしたりした。

 アメリカで最初に緋色病が発生したのはサンフランシスコだった。最初の死者が出たのはある月曜日。それが木曜には、サンフランシスコでもオークランドでも、大勢の人がハエのようにばたばたと死んでいった。死は場所を選ばなかった。人はベッドの中でも職場でも路上でも亡くなっていった。わしが最初の感染者を見たのは火曜日だった。わしの学生で、名前をミス・コルブランといった。教室で目の前に座っていたよ。講義中、わしが異変に気がついたんじゃ。顔が突然緋色に変わっていた。みんな疫病の恐怖におののいていたから、ついに来るべきものが来たとすぐにわかった。わしは言葉を失い、ミス・コルブランを呆然と見ていた。女の学生たちが叫び声をあげて、部屋から飛び出していった。男子学生も二人を残してみんな逃げて行った。けいれんはごく軽くて、一分も続かなかったろう。残った学生の一人が、コップに水を入れて持ってきてやった。ミス・コルブランはすこしだけ飲むと叫んだ。「足が! 何にも感じない!」

 もう一分ほどたったころ、彼女はこう言った。「足がないみたい。足があるのがわからない。膝も冷たい。膝の感覚もなくなってきた・・・」彼女はノート数冊を枕にして床に横たわった。わしらは手をこまねいているしかなかった。冷たさと麻痺が腰の上を過ぎていき、心臓に伝わると彼女は死んだ。ほんの15分の間のできごとだったーーわしは時計で測っていたんじゃ。たったそれだけの時間で、ミス・コルブランはわしの教室で息絶えた。とても美しい、丈夫で健康な人だった。それなのに最初の兆候が表れてから亡くなるまで、たったの15分しかなかった。これで、緋色病がどれだけ早く人の命を奪っていったかがわかるだろう。

 わしが教室でミス・コルブランをみとっているわずかな間に、悪い知らせはキャンパス中をかけめぐった。数千もの学生がこぞって教室や研究室を飛び出していった。わしが学部長に報告に行こうと教室を出た時には、大学はもぬけの殻じゃったよ。キャンパスの向こうに、出遅れた学生が急いで帰路につくのが見えた。二人は走っていた。ホーグ学長はオフィスにぽつんと座っていた。とても老け込んで、白髪が目立った。顔には見たことのない皺が無数に刻まれていた。わしを見るや否や学長は立ち上がって奥の部屋に駆けこむと、ドアをバンと閉めてカギをかけた。わしが感染者と接触したことを聞いて、恐れていたんじゃ。ドア越しに「失せろ!」とわめく声が聞こえた。しんとした廊下に出て、人っ子一人いないキャンパスを通った時の気持ちをわしは一生忘れんよ。恐れではない。感染者と接触していたから、もうわしは死んだも同然だった。なんとも言えない自分の暗く落ち込んだ気持ちに、わしは驚いていた。すべてのものが止まっていた。まるで世界の終わりのようだったーーわしの知っていた世界のな。わしは大学の目と鼻の先で生まれ育った。そこで教職につくのはさだめのようなものだった。父も祖父も、UCバークレーの教授だったしな。一世紀半もの間、大学は壮大な機械のように精密に動き続けていた。それが一瞬にして停止してしまったのじゃ。まるで神聖な祭壇の燈明が消えたようだった。ショックだった。言い表せんほどの衝撃だった。

 家に帰ると、掃除夫がわしの顔を見て悲鳴をあげながら外に飛び出した。呼び鈴を鳴らしたが、家政婦もやはり姿を消していた。家の中を見てまわると、炊事婦が今にも逃げるところだった。彼女もわしに気がつくと絶叫し、身の回りのものを詰めたスーツケースを落として家の外に飛び出し、叫びながら道の向こうに駆けていった。あの金切り声は今でもまだ耳に残っておるよ。普通の伝染病ではこういうことはなかった。伝染病が流行っても、みんな冷静に対応し、医者や看護婦を呼んで診てもらっていたものだ。だが緋色病はそうはいかなかった。突然発病して、突然死ぬ。かかったものは、だれも助からない。顔に緋色の発疹が出たら、その人は死ぬと決まっていた。助かったという例は聞いたことがない。わしは広い家で一人ぼっちだった。さっきも言った通り、当時は電気や空気を通じてほかの人と話すことができた。電話が鳴り、出ると兄さんからだった。感染を避けるために家には帰らず、二人の姉妹はベーコン教授の家に置いてもらうという話だった。わしはそのまま家にいて、感染したかどうかを見きわめるよう言われた。わしは家にこもることや家族の行先を承知して、生まれて初めて自分で料理を作ろうとした。

 結局わしは、緋色病にかかっていなかった。家にいながらにして友人と電話で連絡を取り、外の様子を知ることができた。新聞というものがあったから、戸口に配達するよう頼んで世界の情勢も知ることができた。ニューヨーク市とシカゴは混とんとしていた。そこで起きたことは、ほかの全ての大都市でも発生していた。ニューヨーク警察職員の三分の一はすでに死亡していた。警察長官が亡くなり、市長も死んだ。法と秩序は崩壊した。道には埋葬されない死体が転がっていた。食料や物資を大都市に運ぶ鉄道などの輸送機関はすべて止まり、腹をすかせた貧しい人たちが倉庫や商店を襲った。街には人殺しや泥棒や酔っ払いが横行した。何百万もの人たちが、都市から避難していた。最初は金持ちが自家用車やプライベートジェットで逃げ出し、次は大多数の住人が歩いて町を離れた。そのほとんどがすでに感染していて、道すがら空腹のあまり農家や町や村で略奪を働いた。

 このニュースを伝えてくれた電信技士は、高いビルのてっぺんに一人で残って通信機を操作していた。街に残った人は、彼によると数十万程度とのことだった。群衆は恐怖と深酒で気が狂ったようになり、ビルのまわり一面に火の手が上がっていたらしい。彼もまた、ヒーローと呼ばれるにふさわしい。最後まで自分の持ち場を離れなかったからなーーおそらく新聞社に勤める一介の技師だったのだろうが。

 その技師の報告によると、24時間大西洋間の航空は止まっていて、イギリスからの電信は途絶えていた。ベルリンで、というのはドイツの首都だが、メチニコフ大学の細菌学者、ホフメイヤーが緋色病のワクチンを発見したと伝えられた(メチニコフはロシア出身でパリを拠点にした微生物学者。ノーベル生理学・医学賞受賞)。これがヨーロッパからアメリカに伝えられた最後の言葉だった。ホフメイヤーが本当にワクチンを開発していたとしても、すでに手遅れじゃった。間に合っていたらとっくの昔に、ヨーロッパ人の生き残りがここまで探検に来ていただろうからな。アメリカで起きたのと同じことがヨーロッパでも起きて、大陸全体で難を逃れたのはせいぜい数十人と考えるしかなかろう。ニューヨークからの電信はもう一日続いたあと、ぴたりと止んだ。通信技師は緋色病にやられたか、ビルのまわりで燃え盛っていたという大火事に飲み込まれてしまったに違いない。

 ニューヨークで起きたことは、その後ほかの都市でもくりかえされた。サンフランシスコでも、オークランドでも、バークレーでも。木曜になるころには死者があまりにも多すぎて対処できず、放置された遺体がいたるところでどろどろになっていた。木曜の夜にはパニックになって郊外に避難する住人が続出した。想像してごらん、子どもたちよ。サクラメント川をさかのぼるサケの群れよりも多くの人びとが何百万もの群れをなして町から逃げ出し、郊外をめざしたんじゃ。そうして、全土に広がっている死から逃げようと無駄な努力を重ねた。ところが彼らはそうすることで、緋色菌を広めてしまった。金持ちの乗った飛行船も、飛んで行った先の山や砂漠で菌をばらまいた。数百機もの飛行船が感染者をハワイに運んだが、そこでもすでに緋色病が猛威をふるっていた。

 サンフランシスコの秩序が失われてニュースの送受信をする技師がいなくなるまで、そうした情報は電信で伝えられた。世界との通信がすべて途絶えてしまうのは、まったく驚くべきことだった。まるで外の世界が突然止まって、塗りつぶされたかのようだった。以来60年もの間、世界はわしの人生から消えてしまった。ニューヨークやヨーロッパ、アジア、アフリカという場所はまだ存在したのだろうが、便りはどこからも届かなかったーー60年もの間な。緋色病とともに世界は完全に崩れ去り、二度ともとに戻ることはない。一万年にわたって栄えた文化と文明が、一瞬にして消滅してしまった。文字通り「うたかたのように過ぎ去」ったのじゃ。

 そう言えばさっき、金持ちの乗った飛行船の話をしたな。彼らは菌をまき散らし、逃避行の果てに野垂れ死んだ。わしはそうして生き残ったものを一人しか知らんーーマンガーソンじゃ。彼はのちサンタローザンになり、わしの長女と結婚した。彼がサンタローザ族に入ったのは、疫病から八年がたったときだった。当時19歳で、結婚できるまでに12年待たねばならなかった。彼が来たとき、サンタローザの適齢期の女はすでに亭主がいるか、結婚相手が決まっていたからな。そこでマンガーソンは、わしのメアリが16になるのを待ったというわけだ。二人の息子が、去年マウンテンライオンに殺されたギンプ・レッグだよ(ギンプ・レッグは「足をひきずった」の意)。マンガーソンは、疫病が起きたとき11才だった。父親は富豪委員会のメンバーで、それは裕福な権力者だった。彼らはコンドル号という自家用飛行船に一家で乗り込み、カナダのブリティッシュコロンビアにある森林を目指した。ところが事故が起きて、マウント・シャスタの近くに墜落してしまった。聞いたことがあるだろう、ここからずっと北にある山のことだ。そのあと家族の間で病気が広まり、11歳のマンガーソンだけが生き残った。八年もの間彼はたった一人でだれもいなくなった土地をさまよい、仲間を探してまわった。そして南に旅を続けたところでついにわしらと出会い、サンタローザンになったというわけじゃ。

 話をもとに戻すと、サンフランシスコ・ベイエリアの町という町から一大エクソダスが始まったあと、電話が動いている間わしは兄さんと話をし続けた。わしは、町から逃げるのは狂気の沙汰で、自分に緋色病の症状はないから、親戚と一緒にどこか安全な場所に避難すればいいと提案した。そこで、避難場所を大学の理学部の建物と決め、食料などの備蓄を集める準備をして、避難したあとに侵入者を防ぐための武器も集めた。

 兄さんは、準備を進めている間感染していないことを確かめるため、少なくともあと24時間は家を離れないようにと求めてきた。わしは承知して、兄さんは次の日に迎えに来ることになった。電話が切れるまで、わしらは備蓄品の内容や、隔離所を守るためにどうすべきかについて話し合った。電話は話の途中でぷっつり切れた。その夜は電灯もつかず、まっ暗闇の家でわしは一人ぼっちだった。新聞も来なくなっていたから、外の世界でなにが起きているかを知る手段はなかった。暴動のさわぎや銃声が聞こえた。オークランド方面で火事が起きて、夜空を赤く染めているのが窓から見えた。恐怖の一夜じゃった。わしはまんじりもしなかった。一体何が起きたのかわからんが、家の前の歩道で男が殺された。自動式けん銃のダダダという音がしたかと思うと、撃たれた気の毒な男がうなり声を上げ、助けを求めながら戸口まで這ってきたんだ。わしもオートマチックを二丁構えて、男の様子を見に外に出た。マッチをすると、男は瀕死の重傷で、緋色病にもかかっていることがわかった。わしはあわてて中に戻ったが、男のうめき声と助けを求めて叫ぶ声は30分ほど続いた。

 翌日、兄さんが迎えに来た。わしは持ち出す貴重品をかばんに詰めていたものの、兄さんの顔を見て、理学部には決して一緒に行けないことを悟った。緋色病だった。兄さんはなにも知らず手を差し出して挨拶しようとしたが、わしは急いで中に戻り、「鏡を見てくれ」と言った。鏡をのぞいた兄さんはみるみる濃い緋色に変わる自分の顔を目にして、へなへなとイスに座りこんだ。
「なんてことだ!ーーついに私もか。近づくな、もうだめだ」
次の瞬間、けいれんが起きた。その後息を引き取るのに、二時間もかかった。いまわの際まで意識がはっきりしていた。足とふくらはぎ、それに腿が順に冷たくなって感覚がなくなっていくのを、兄さんはしきりに訴えた。最後に麻痺が心臓にまわって死んだ。

 緋色病はこうしてまた、一人の人間の命を奪っていった。わしはかばんをつかんで逃げた。通りの風景は酸鼻をきわめた。死体を踏むことなしには歩けなかったし、通行人は発病して次々に倒れていった。バークレーのあちこちで火の手が上がり、オークランドとサンフランシスコはすでに大火に包まれていた。煙が一面にたちこめて、真昼でも薄暗い黄昏のようだった。ときおり風向きの加減で、煙のすき間から太陽がどんよりと鈍赤色の丸い顔をのぞかせた。子どもたちよ、この世の終わりとはあの時のことをいうんじゃ。

 ガソリンスタンドで給油も修理もできなくなっていたのだろう、道は動かなくなった車であふれていた。その中の一台の座席には男女があおむけに倒れて死んでいた。近くの歩道には女二人と子どもの遺体が転がっていた。どこを見ても奇妙で恐ろしい風景が広がっていた。人びとは音もなくひっそりと、まるで幽霊のように通り過ぎて行った。幼い子を抱いた青白い顔の女や、子どもの手を引く父親がいた。一人だけのものも、連れがいるのも、家族連れもいた。みなが死の町を逃れようとしていた。食料や毛布や貴重品を抱えている人がいれば、手ぶらの人もいた。近所に食料品店、つまり食べ物を売る店があった。わしはそこの店主をよく知っていた。物静かで真面目だが、おろかな頑固者だ。このおやじが店を必死で守っていた。窓とドアは破られていたが、店主はカウンターの後ろに隠れて、店に押し込もうと路上にたむろする男たちに向かってピストルを発砲していた。入口には、弾を受けて死んだと思われる男たちが倒れていた。離れたところからわしが見ていると、隣の靴屋、というのは靴というものを売る店だが、そこに泥棒が入って火を放っていた。食料品店のおやじの加勢はしなかった。人助けをするべき時はとっくに過ぎていた。文明が崩壊した今、だれもが自分の身を守るのに精いっぱいだったからな。

第三章 了 つづく

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