跡。
砂浜を散歩していたら、
ウミガメの産卵の跡を見た。
波打ち際から離れた高い場所に、
大きなくぼみがあった。
砂浜には、波打ち際から
ウミガメがひれを動かしてぐいぐい進んだ跡がついていて、
おなかの甲羅の出っ張りが
進む道の中央に一本の筋をつけていた。
砂だから、跡が残った。
これがもしコンクリートだったら、
ウミガメが産卵のために上陸しても、
朝には何の痕跡も残っていない。
血でも付いていたら別だけど、
それは何らかのアクシデントの跡であって。
ウミガメの行進という、出力の微弱な行為の跡は
砂という柔らかい地にしか残らない。
砂は、いろんな跡を残す。
跡には、情報がいっぱい残されている。
砂浜の凸凹の跡を見て
その場所に昨晩ウミガメが来て、
卵を産んでいったのだと
うちは分かった。
事の筋道を想像で補い、辿って。
8月ころには、その場所から子亀たちが這い出して来ることだって、
想像できる。
跡は、時に未来も見せてくれるのだ。
***
砂のように、やわらかく、可塑性のある「地面」は、
かたいコンクリートとは別の便利さを持っていて、
人の役にも立つ。
生きること全般についての
「地面的なもの」についても、同じ。
跡が残る、やわらかい地面には、そうでない地面よりも
情報が多く残っている。
例えば
心の砂地。心のコンクリート。
豊かに記憶を呼び覚ますのは、
前者だ。
アスファルトのようにでもなく、水のようにでもなく、
「砂のように在る」ことにはそのような特徴がある。
そして実際、うちの心は、質感で言うなら、
コンクリートではなく、水でもなく、
砂地なのだ。
水も浸み、いつか渇き、
誰かの足跡を残し、一部は風に舞って飛んでいく。
波にさらわれて削られ、
河川から新たな砂の供給を受ける。
人の通った跡。
犬の通った跡。
風の渦巻いた跡。
波の跡。
穏やかなる日常の、
特に目に留まらないような、意識にも上らないような。
行為や現象の跡。
砂地にはそれらが残って、
やがて消えていく。
***
跡。跡。跡。
この世には様々な跡がある。
砂浜だけじゃなく、公園の砂場にだって、
落ち葉のつもる並木道にだって
跡がついている。
犬の毛にも
風にも
人の顔にも跡がついている。
雲の上にも、跡はあるだろうか。
たとえば、今見えている入道雲は
どこからか
一気にのぼった水蒸気。
だとしたら、
入道雲は太陽の降り注いだ跡。
吹き上げた風の跡。
大気の圧が変化した跡。
知識のおかげで、跡は物語を連想させてくれる。
雲に関する知識。
ウミガメに関する知識。
ウミガメの跡も、それと知らなければ、
ただの砂浜の凸凹にすぎない。
雲の背後にある物語も、雲が水蒸気であって、水蒸気は地上の水が変化したものだという知識が手助けして想像させてくれる。
知識はそういう意味で役に立つ。
けれど「正しい知識」をがり勉しなくても、跡を読むことはできる。
違う物語を想像するだけの話で。
例えば、雲が水蒸気だという知識がなければ、
それを「人の気持ち」のようなものだと想像するかもしれない。
誰かが泣いたり喜んだりした感情のエネルギーが
空に昇って、凝縮して、雨に交じって地上に降り注いだり、
雪を降らせたりするのかもしれないと。
だからその時には、雲は「誰かが泣いた跡」だったり
どこかで結婚式が行われた跡、だったりするのかもしれない。
跡を読むことは、自由。
雲が水蒸気であるという知識は、一番「役に立つ」のでしょうけれど。
跡から想像されうる物語は、
科学に沿った「便利」な物語ばかりではない。
***
何の注目も感想もなく、物語の想像もなく、
ただ足の踏み場として、砂浜を歩き、
ウミガメの通った跡も、
ただ足をもつれさせる凹みとしか捉えられずに
素通りしてしまっていた場合を考えると、
世界はとても寂しい場所に思える。
跡と、知識と、想像。
たとえ「正しくない」知識であろうと。
世界に関わる、とっかかりになるのだ。
跡と、知識と、想像。
この三つが重なるとき、
世界には彩りが加わる。
「あっ」と気づくことから、始まる。
気づかなければ、始まらない。
まずは「在る」ことに気づいていたい。
何かの存在に気づくことすら、
当たり前のことではなく、
跡が残っていることや
知識に助けられて気づき、
そして、どうやって獲得したのかもわからない想像力に助けられて、
時間を旅してゆくのだった。
うちは世界のいろんなことに気づいて、確かめていく。
自分から見える物語を紡いでゆく。
それが想像に過ぎないことを忘れずに。
今日も跡をたどってゆく。
28.7.30,Mizuki
※表題の画像はmarcelkesslerによるPixabayから