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”コミュニティ”と”ネーション”
タイトルがマニアックだが、ちょうど昨日友人との読書会のテーマで「ナショナリズム」について取り上げた。
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2020special/index.html
ナショナリズム?ネーション?19世紀帝国主義の遺物ですか、て言われそうだが今も形を変えて存在しているということに話していくうちに気づいた。今だとSNSのインスタとかFBとかYoutubeコミュニティサロン等の各種コミュニティだろうか。イメージとしては窓の枠で、枠に当てはまらなければ「排他」されてしまう。それが200年前は国民国家、国籍であって21世紀の現在は”コミュニティ”だろう。SNSもだし、オフラインの集い(〇〇業界の集いとか)、学校・職場など背景を共有する集団両方を指す。
読書会で一番刺さったワードとして「社会的なネーション、心理的なネーション」といったものがあった。まあ個人の心理が固まれば社会になるでしょ、というのはあるかもしれないが膨らむと主語が異なってくる。アイヒマンの「平凡な悪事」ではないが、何かしら自分が属している環境を良くしたいと思う一心がゆくゆくは怪物的なネーションで暴走してしまうことがある。「人間は社会的動物」のアリストテレスの言葉から、私たちは何かしら承認欲求が奥底にあって、自分の能力が認められる・発揮できる環境を求めている。それは財産より強いかもしれない。時には本来の自分を押し殺してしまったり忖度したりすることもある。それが濃くなってしまったら「コミュニティ」から「ネーション」に近づく。自分の意思なのか、何か大きな組織の論理に動かされているのか。
コミュニティ、ネーション、何かしらの集いは私たちの意志を結晶し昂揚させるものでもあり、障壁でもあることを心に留めよう。