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「END展」ー新たなはじまりと記憶の共有

ポリタスTVで紹介されていたことをきっかけに、二子玉川ライズで開催中の「END展」を観てきた。

駅前近くの高層マンションはじめ(平均年齢30半ば~40ぐらい、おそらく子育て真っ最中の世代)ファミリー層が多く住む街で死を考える展覧会の温度差に一瞬戸惑ったが、冷静に考えるとあと20年したらこの高層マンションの住人のほとんどが定年を迎えて高齢化するわけだから、先を読んでいるテーマではある。副題に「死から問うあなたの人生の物語」とあり、展示を見ているとそれぞれの明日からの生き方を考える新たな旅のきっかけを提供している気がした。その人たらしめていた肉体は終わるが、故人についての記憶は残る。

半年前、とあるご縁であるお寺の信徒(檀家ではなく、私個人で有志として)になって、月1回法話会に参加したり、週1回YouTubeライブ配信されているお坊さんのクラブハウスのお手伝いしながら仏教の教えを学んでいると、どう今生きている時間を輝くものにするか、いまここのウェルビーイングについて、視点は変われどこの展覧会にも共通するものを感じた。

特徴的な展示のひとつは、暗室にタイプの音が反響する「10分遺言」。2019年のあいちトリエンナーレなど、様々な展覧会で出展されてきた。私はあいとりで初めて見て、名刺のQRコードをその場で読み込んで誰かへの遺言をタイプしていた。遺言というと、ひっそりと親から子へ手紙だったり、あるいは臨終の虫の息で発せられる言葉をかろうじて聞き取るというイメージを連想しがちだが、この展示は誰かが誰かに宛てた遺言を、スクリーン上でタイプされている文字を打っていた本人と一緒に画面を覗き込んでいるような感覚だ。パーソナルな遺言だが、デジタルで共有されることで、書き手受け取り手自身は匿名なものの、内容は人間の誰しも持っている「生老病死」に対して渦巻く様々な感情だ。誤解がある言い方かもしれないが、その想いが見えることで少しほっとするというか、また明日に向かって生きていく(=肉体的な死に向かうこと)ことへの再スタートが切れるなと感じた。

ただ、生者にとっては自分や周りの生きて関わっている人との関係性を見つめられる反面、死者とはもちろん対話できないし、臨終の時は意思疎通が難しい場合がある。例えば闘病中や認知症の家族がいた場合、延命治療などは本人の意志に見合う死の迎え方にかなっているのか、必ずしもYESと言えない(ケアする側の都合だったり)することも多い。だが、何年か経って自分も同じような状態になったら、ふと見送ったその人の面影が過ぎるかもしれない。それが肉体がありながらの今世から、次の新たな魂の旅のはじまりともいえよう。

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