沈黙と言葉を交わすこと
ある修道院の生活を撮ったドキュメンタリー映画「大いなる沈黙」と、先日面白い友人たちによるアングラ的パフォーマンスを観て。私たちって日々言葉に左右され、頼りすぎているかを実感した。
ドキュメンタリー映画「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0719T6LZ2/ref=atv_wl_hom_c_unkc_1_23
映画は、祈りの生活、本読んだり家畜の世話をしたりと、生活のほとんどを沈黙で過ごす修道院の生活を記録したもの。文字・発話など言葉の情報がほとんどなく、見るだけで周りの自然の音、生活音のみ。見てるだけで心が穏やかになる。沈黙の中でも確固とした意思が感じられる日課があり、彼らは心の中で自分自身や神と対話しているような気がした。
一方で、先日、妖怪になることを目指している大学時代からの個性豊かな友人たちによる舞踏パフォーマンスを観に行ってきた。一部を除いて、皆仮面をかぶって、時にはゆったり時には激しく、何かを訴えるかのように踊っていた。出演者の一人がおっしゃっているように「表情は言葉以上に情報が多い」ため、演者・観客双方が情報過多に陥ってしまうのに納得した。仮面に隠れて見えないからこそ、彼らの踊りに集中できる。沈黙の中でも様々な思いが交錯しているのが感じられるし、言葉を交わすことでの誤解が少なくなっていく。いろいろな思いを一旦沈殿させ、時間が経って浮き上がってきたことを言葉にしていくことで、争いよりもお互いの理解が進むような豊かな時間が多く生まれるだろう。普段、仕事やそのほかの場面でも瞬時的に会話のキャッチボールをしているが、誤解させてしまうこともどうしても多くなってしまう。時には、沈黙は豊かな内省・そして共有の時をもたらすのだと実感させてくれた。
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