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華倫変という漫画家と100日後に死ぬ光うさぎ

苦しみってのはただ噛みしめるように なれていくしかないのかな・・・

これは『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』という漫画の中のとあるセリフ。作中、岡山三奈という人物が述べる「唯一の本音」とされている言葉である。そしてこのセリフは28歳でこの世を去ったこの漫画の作者である華倫変の本質そのものであるように思える。

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『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』には『忘れる』『あぜ道』『下校中』『木々』『ねむる部屋』『コギャル 危ない放課後』『酒とばらの日々』『とにかく現世はくだらなすぎる』そして表題作の『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』という9編の作品が収録されている。どれも幸の薄いような壊れてしまったような女性が苦境の中を生きてゆく様を描いたもので、その雰囲気は曰く言い難いほどに不快かつ不穏な空気が蔓延している。もはや救いを求めることすら滑稽に思われるほどの虚無に支配されているのである。

今回取り上げるのはその表題作で「光うさぎ」と名乗る若い女性がブログで100日後に自殺するのだと宣言し、カウントダウン形式にその過程を記録しネットに公開するというものである。そう、つい最近社会現象にまでなった『100日後に死ぬワニ』とどこか似通った構成であることから一部の人々の間でこの作品が思わぬ形で再び注目を浴びることになったのである。

産まれてきたからには大地だろうが他人の心だろうが爪跡のこさないとむかつかない? まぁ産まれたこと自体むかついてるからこんなバカなことしてるんだけど

この捨てセリフと共に光うさぎが自死するまでの100日間が開始される。彼女が死を望む背景は詳しくは語られず、上記のようにただ産まれてきたこと自体にむかついているということだけが語られる。この段階での様子はただの目立ちたがりのようにも見え、死ぬことに対しての真剣さのようなものは一切感じられない。

"ネットにはもううんざり" そう言って現代社会を嘆いているうちに最初の3日間が終わる。その間にホームページの掲示板に書かれるのは「死ぬまでに一回させて」「いいからセクスさせろ!!キチ害!」という言葉。匿名掲示板ではありがちな反応ということもあり、彼女は3日目にして飽きてしまう。

残り95日、飼い犬の「ネチケ」が紹介される。しかし、ネチケはノラ犬として生きていけるほど逞しくないらしく "私が死ぬ前に殺すべきかな?" と悩んでいる様子が描かれる(そもそもノラで生きていけるような犬種には見えない。チワワ?)。

残り90日、検索しても誰も自分のことを気にしていないことに気が付き落ち込む。

時間は飛んで残り65日「今日は特別な日です!」と正装した彼女が涙ながらに語ったのは愛犬のネチケを殺したことだった。首を絞め殺したのか、ベランダでは吊り下げられたネチケの影がゆらゆらと揺れている。

残り60日、例え愛犬を屠ろうが誰からも返信はなく、やはり誰も自分のことを気にしていないのだと改めて痛感する。

残り50日、この頃から様子がおかしくなり始め「朝から世界が圧迫してくる!」「みんな砂!味覚ゼロ!」といった発言がみられ、精神的に追い詰められている様子が伺える。そしてついには「・・・・おとうさん!・・・・おかあさん!・・・・死ぬ前に一度ヘロインやってみたかったです!」と言い出す始末。しかしネットの反応は....


「まだこいつ、死んでないの?」

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残り40日になると「わたしに共感する人は異常者です。即刻入院してください。」と述べ、自暴自棄になった彼女は自分の性器をネットに晒す。残り30日になると山田花子(24歳で投身自殺した漫画家)の絶筆である『魂のアソコ』に掲載されている詩を朗読し、またも性器を晒したり掲示板へ心無い書き込みをする人々に対しては"童貞は死ね" "逝ってくれ" "臭い" "うざい" "IQが低い" "勝手にアニメイトに貢いでくれ"と暴言を吐きまくる。しかしいつの間にか過疎っていたはずの掲示板は人で溢れており、光うさぎとのやり取りは活発になってくる。

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ところが、残り28日になると急に我に返り「どうすれば私のことみんな忘れないでいてくれるの?どんなこともする 私を忘れないで!」と嘆き、孤独なままの死を酷く恐れている様子が描かれる。そして残り15日になったころから光うさぎは突如”調子がいい”と語り、目を閉じたまま遠くのことを考え "音を奏でる光のこと" という抽象的で平和的なイメージを考えるに至り、その表情は穏やさに満ちてくる。そんな光うさぎの精神状態に呼応するかのように掲示板へ書き込む人々の反応も彼女に同調し始め、ついには「死ぬなんて考えちゃだめです。生きるべきです。」という書き込みすらも現れる。

そしてあと10日、3日、2日、1日....。


以下、残り3日からの光うさぎと掲示板にいる人々のやり取りである。

-良かったね

「ありがとう」

-すっきりしたかい?

「もうじきできるよ」

-また、会えるかな?

「そりゃ!!もちろん!!すぐに すぐ会える」

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「前日」から「今日」にかけて、彼女は穏やかに自分自身が死ぬ意味を見出し始める。そしてネットの住人たちはそんな光うさぎを受け入れ始める。「いいからセクスさせろ!!キチ害!」と言っていた人々はもうここにはいない。

フラッシュバックする記憶。インターネットの高速回線を通じて彼女の思いは様々な人や場所を駆け巡り、その記録はネットを浮遊しつづける。そしてそれは誰も真実を思い出すことのできない夢のようなものに変わりつつああった。

「やっと今日がきて やっと私は全て 許せるようになったのです」

"今日" を迎え、セーラーを服を身にまとった彼女はそう切り出して、最後のメッセージを伝える。

「残された人たちのことも考えない自分勝手な奴と思われるかも知れません。でもそれは違います。これが・・・こうすることが私と世界との ギリギリの接点だっただけなのです。

そうして光の中に消えてゆく光うさぎ。うっすらと見える背景、そこは樹海のようにも見える。最後のページはノイズで乱れる画面、そして彼女の後を追うようにして光の中に消えてゆく愛犬ネチケ。そうしてこの物語は幕を閉じる。

※ネチケとはネットワーク・エチケットのことを意味する言葉である。つまり光うさぎに絞め殺され、彼女と同様に樹海に消えてゆく "ネチケ" が傍観者である掲示板の人々や我々だとしたら?


「華倫変の希死念慮」

華倫変の漫画には常に死の予感や空気のようなものが漂っている。時にそれは美的感覚となり、コメディとなり、そして血なまぐさいものとなる。しかしそれらは華倫変の希死念慮の変化であるように思える。死を美しく思う感情、命など虫けら同然のゴミのようなものだと思う感情、そして一切の希望がない悲痛な死への恐れ、それらが発露して作品へと昇華される。そのダイレクトにアウトプットされる感情の強度は、もがき苦しんでいるにも関わらず自ら破滅へと突き進まずにはいられない登場人物たちの感情と密接にリンクしている。日陰に死神がじっと佇んでいるような、そんな心地よい虚無の世界では決して救いを求める必要はなく、死という「その時」だけが最終到達点として美しく輝いている。

「死に囚われる人々」

フロイトが提唱した「死への欲動(デストルドー)」という概念がある。人には死へ向かおうとする欲動があるという考え方である。そもそも生命を維持することを目的とするはずの生物が死を求めるのはなぜか。それは生命を持つものは、生命を維持するために過度の緊張状態を強いられることになるからである。つまりその緊張状態から逃れたいという欲動が生まれる。これが「死への欲動」いわゆる「タナトス」であり「エロス(生の欲動)」との対立概念である。この作品で光うさぎは死を前にして人生のフラッシュバックを経験する。それはまさに「死への欲動」の表れである。フラッシュバックによって、救いようのない自分自身の過去へ強制的に帰される体験は、人に無への開放を強く求めている。それは死へ向き合う光うさぎの真剣さそのものである。

「不安という防御反応」

こんな漫画にもかかわらず、なぜ人はこの苦しみに心地よさを感じてしまうのか。それは日常に漂う不安の仮想的可視化と孤独への肯定的感情である。

人はなぜ不安を感じるのか、それは耐え難い現実を前にしたときその恐怖を少しでも和らげるための防御反応であると、SF作家のフィリップ・K・ディックは言っている(この小説のサブタイトルもまたディック作品のパロディであるのだ)。日常は様々な恐怖に溢れている。いつ何時どんな恐怖が襲ってくるかわからない。だからこそ事前にその恐怖を察知し、備えるのである。つまりそれが不安となる。我々はこの漫画を読んで不安が普遍的であるものと感じることができる。登場人物たちは常に何かに怯え、何かが欠如してその穴埋めに必死なのである。我々はそこに強い共感を覚える。不安は死と同様にどんな人間にも等しく訪れる、恐怖は自分だけのものではないのだ。そしてそれは孤独の肯定にも繋がっている。なぜなら不安の解消先としての依存先が見つからないからである。人は孤独であることに不安や恐怖を覚えるが、日々孤独である人々は人との関りが盛んな世界にも恐怖を覚える。こうしたアンビバレントな感情の普遍性を良く表現できている点もまたこの作品の魅力であり心地良さなのである。

最後に、華倫変の漫画はどれも20年近く前の作品である上に再販されていないので、どの作品もかなりのプレミア価格になっている。だが去年からKindleで電子化されたので大枚を叩く必要はなくなった。気になる人はぜひ読んで欲しい。



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