『温泉とプロポーズ』第3話
陽太と二人でお台場へ出かけた次の週末、土日とスポーツの日の3連休。私と陽太は、二人で再び青森へ向かう新幹線に乗っていた。たった2か月前に青森に行ったばかりでまた行くことになったが、今回は緊急事態なので仕方がない。
電話で母から「郷の湯が営業できない」と言われた時は心臓がひやりと冷たくなるような感覚だったが、よくよく聞いてみると母が動転して大げさに伝えていたところもあった。その後に電話を替わった父からの情報も踏まえると、正確には源泉をくみ上げるポンプが不調で、修理のために1か月くらい休業にする、という内容だった。
もちろん温泉を1か月も休むのは大変な事態だけど、ポンプの業者にもできるだけ早く対応してもらえることになり、再開に向けて着々と進んでいるそうだ。
昼過ぎに新青森駅に到着すると、今回は父と母が二人で迎えに来ていた。
「陽太さん、せっかくのお休みにまた青森に来てもらってごめんなさいね。来てくれてありがとうございます」
「早い再会になったね、陽太くん。今回は、お世話になります」
4人で父の車へ乗り込み、実家へと向かう。郷の湯が休業中なのにまた青森へやって来たのは、父からの要請によるものだった。
父によると、源泉のポンプ設備を修理するために、費用の一部の支援を受けられる市の制度があるらしい。ただその申請様式が市のwebページからダウンロードしてパソコンで数枚作成する必要があるらしく、パソコンに疎い父と母にはお手上げだった。
そこで、IT業界で働いている私にヘルプの要請が来た。申請はできるだけ早い方がいいらしく、電話で情報を聞いても埒があかなそうなので、実家に集まってやる方がよさそうだった。ちょうど連休だったこともあり、再び帰省することになった。
当初は私一人で来るつもりだったが、陽太にその話をすると「二人いた方が作業も早く進むし、温泉について学ぶ機会になりそうだから、一緒に行く」と言い出した。確かに一緒にいてくれた方が心強かったので、陽太にも一緒に来てもらった。
「今回のような工事で温泉を休むことは、これまでもあったんですか?」
車の後ろ座席から陽太が前に向かって問いかけると、父と母から順番に返答が帰って来た。
「ポンプや源泉の設備は定期的にメンテナンスしてもらうんだけど、今回みたいに大規模な作業は久しぶりだな」
「10年くらい前だったよねえ。あの時もしばらく休んで大変だったけど」
色々と温泉のことを聞いている内に、実家に到着した。車から降りると、郷の湯の前に「休業中」の看板が掲げられている。今回はうちの温泉に入れないんだな、と思いながら家の中へ入る。
部屋に荷物を置いて、早速リビングへパソコンを持ち込み、父と申請書について話し始めた。私たちがいる3日間の滞在中に、申請書を完成させなければいけない。母もほうじ茶と水ようかんをテーブルに置きながら、話に加わった。
ポンプ工事の業者から提出された見積書や、郷の湯の情報がまとまったクリアファイルなどを、父がテーブルの上に広げる。生まれてからずっと入ってきた郷の湯だけど、全体図面や設備の情報、事業計画などを見たのは初めてだった。分からない単語や手書きで読みづらい文字もあったので、都度父に確認しながら、申請書を埋めていく。
普段の仕事とはまるで違う業界だし、そもそも行政の助成の申請書を見たこと自体が初めてだったので最初は戸惑っていたが、申請の手引きや記載例なども読みながら、何とか理解できるようになってきた。あとは明日の午前中で、何とか申請書は完成しそう。父は明日の午後から、工事業者との打ち合わせがあるらしい。
気づけば、夕方も過ぎて暗くなっていた。大体の目途はついたので今日はこのくらいにして、夕食の準備を始めることになった。母に言われて、テーブルの上に広げた書類やら資料を片付ける。
「綾、この布巾でテーブル拭いて。そしたらホットプレート持っていって」
母は、しばらく前から、台所で夕食の焼肉の準備を始めていた。私が帰省すると、高確率で我が家はホットプレートで焼肉をする。陽太と二人で準備しているところに、トレーに盛られた「カルビ」と「サガリ」、玉ねぎやピーマン、人参などの野菜たちがやって来た。肉は昔からいつも、同じ町内にある老舗の「肉のさいとう」から買ってくる。
じゅうじゅうと肉や玉ねぎを焼きはじめる中、父が陽太と私に缶ビールを渡す。
「陽太くん、今回は来てくれてありがとう。助かったよ」
「いえ、ちょうど休日だったので。また青森に来れてよかったです」
母は、焼かれた肉を「たくさん食べてね」と言いながらどんどん陽太の皿に取り分ける。陽太は一生懸命食べているが、皿に盛られた肉の量は増える一方だ。
「本当に、私もお父さんもパソコンは全然だめだねえ。綾も陽太さんもパソコンができる仕事でいいねえ」
「いや、私たちが会社で普段やってることは、また全然違うから」
「それでも、今日来たばかりでささっとやっちゃうんだから。大したもんだわ。よく分からないけど、いつも会社で頑張ってるんだね」
帰省の度に何度か説明しているけど、おそらくまだ娘がどんな仕事をしているか、実態がつかめないらしい。そういえば、就活中にようやく内定が出たと実家に報告したときも、母は「何やってるかよく分からない会社ねえ。こっちで市役所を受けた方がいいんじゃない?まだ間に合うんじゃないの」と言っていたことを思い出す。
「一応パソコンは家にもあるけど、普段使わないから中々覚えなくてねえ。お父さんも最初は年賀状に使うって張り切っていたけど、もう使わなくなったし」
「中々覚えらいねくて、結局手書きになるんだいな。だから、今回は来てくれて助かった。陽太くんには、休日にうちの仕事の手伝いみたいなことさせてしまったけど」
陽太は、いえいえと言いながら、ちらりと私の方を見る。陽太としては、今回のことも温泉について学ぶ機会になると思って来ている。けどまだ、父には温泉を継ぎたいという気持ちがあることは伝えていない。
陽太はどこかでタイミングを見て、父に伝えたいと思っているのだろう。けど、既に父の顔はビールで真っ赤だし、今日はもう話を切り出すには難しそうだった。
結局この日は、どんどん焼かれていく肉を平らげるのに必死でお腹いっぱいになり、早めに休むことにした。ホットプレートや食器を片付けて順番にシャワーを浴びて、二階の寝室へと上がった。
*
次の日。朝食を食べ終わった私と陽太は、再び申請書の作成を進めていった。昨日の内に大体目途はついていたけど、工事する機器の名称や収支計画などを記載する欄があり、色々な情報を集めながら埋めていく。
父は午後からの業者の打ち合わせに向けて郷の湯で何やら作業をしていたが、定期的に家の方に顔を出していった。その度に内容の確認や分からないところを聞き出して、とりあえず記載するべきところは全て埋めることができた。
「いやあ、二人ともありがとう。ここまで来れば、あとは何とかできそうだ。連休明けに、市役所さ行ってみるわ」
父は上機嫌で、私と陽太に何度も感謝を伝える。郷の湯のことをちゃんと手伝ったことはこれまで無かったけど、少しは役に立てたようでよかった。
「本当に、二人がパソコン得意でよかった。会社で働いてたのはずっと前だし、その頃はそんなにパソコン使わねがったしな」
「え?お父さんって会社員だったことあったの?」
初耳だった。てっきりずっと郷の湯で働いているんだと思っていた。
「あれ、言ったことながったか?最初は仙台の会社に就職して、農業の機械の営業をしてた。その内、親父から帰ってこねがって言われで、30になる前に実家に戻ったんだ」
そうだったんだ。これまで父とこんな話になったことは無かった。家族だから当たり前に何でも知ってると思ってたけど、父の全部を知っているわけじゃないんだ、ということに気づく。
「それからは温泉の仕事ばっかりで、パソコンも他のことも全然やれなくてな。ホームページとか、ネットもあった方がいいんだろうけど、相談できるような人もいねえし。だから、今回は本当に助かった。恩人だ」
陽太は「いえ、そんな」と謙遜した後、父におずおずと話を切り出した。
「あの、少しお話したいことがあるんですが」
陽太はそう言って、まずは私の方をちらっと見る。郷の湯で仕事をしたいということについて、話をするつもりなんだろう。私も完全に納得したわけではないが、確かに父にはそろそろ話をした方がいいと思う。陽太の目を見て、うなずいた。
陽太は少しこわばった表情で、父に向き合う。普段はマイペースを守っている陽太だけど、さすがに緊張しているようだ。
「あの、郷の湯のことなんですけど。今まで、郷の湯でずっと仕事をして、温泉をずっと守ってきたことについて、本当にすごいことだと思っています。僕は、この前の夏に初めて郷の湯に入ったばかりですけど、すごい場所だと思ったんです。それで、」
陽太は、少し声を震わせながら、それでも父に自分の気持ちを一生懸命に伝えた。父も、真面目な表情で話す陽太の方を、じっと見つめている。
「それで、僕はいま、全然関係ない仕事をしていますけど。でも、この前来た時のお話も聞いて、郷の湯をいつまで続けられるか分からない、お父さんの代までで、終わりだと思う、という話を聞いて。もしよかったら、僕が郷の湯で仕事をして、温泉を継ぐということを、考えたい、と思っています」
陽太は一息に話して、大きく息を吐いた。父は陽太の話を聞き終えると、腕を組んで目をつむり、じっとしていた。陽太は、何か続けて言おうとしているが、父の表情を見て迷っている。しばらく沈黙が続いたところで、父がゆっくりと話し始めた。
「陽太くん。まずは、郷の湯のことを考えてくれてありがとう。夏に初めて来た時も、色々と郷の湯のことを聞いてくれたね。普段話す機会も無かったから、嬉しがった。確かにこのまま継ぐ人がいなければ、郷の湯は自分の代で終わるかもしれない。その話を聞いて、陽太くんが継ぐと言ってくれたことも、本当にありがたいと思っている」
父はここまで話して、一拍置く。そして静かな声で、でもはっきりと、陽太と私の方へ向かって言った。
「でも、私としては、温泉を継ぐことについて、賛成はできない」
父の声が響く。父は真剣な口調で伝えようとしているせいか、いつもの訛りが少なくなり、標準語に近くなっていた。そのまま父が続けて話す。
「もちろん、陽太くんに問題があるわけじゃない。やっぱり、温泉の経営は難しい。それこそ、少し前まではこの辺りにも、近くに何軒か温泉があったが、今では廃業してしまったところも多い。郷の湯だって、ぎりぎりのところでやっているんだ。今回みたいに、源泉の設備や浴場の修理でお金はどんどん出ていく。住んでいる人も減っているから、常連さんやお客さんの数も、昔よりは少ない」
私は、父の話を聞きながら陽太にも目を向けた。陽太はうなずきながら、黙って父の方を見つめている。
「私自身、これまでにも、もう無理かもしれない、と思うことがあった。でも、毎日来てくれる近所の常連さんとか、遠くからでもうちの湯が好きで来てくれる人がいて、何とか続けて来た。でも、やっぱり大変だし、陽太くんや綾にそんな苦労をしてほしくない、という気持ちが、やっぱり強い」
ここで、父はちらっと私の方に視線を向ける。確かに、陽太が郷の湯で働くということは、私も一緒に実家に戻るということだ。父としてはそんな姿がイメージできないし、これまでそんなつもりも無かったのだろう。
「さっきも言ったように、陽太くんに何か足りないことがあるとか、そういうことは全然ない。今回だって、何度も言ってるように、本当に助かってるしありがたい。でも、二人には違う道を歩んでほしい。もちろん、これからも綾とは仲良くやっていってほしい」
父はそう言うと、あとは無言のまま下を向いた。陽太も返事をすることができず、じっとしている。しばらくして、「そろそろ業者が来る時間だから」と、父は郷の湯へ戻っていった。
陽太は、テーブルの前で正座をしたまま、動けないでいた。声をかけると「大丈夫」と返事はあったが、無表情なままで、膝の上の手を見つめている。陽太も簡単にいくとは思っていなかったと思うが、私の想像以上に父はきっぱりと反対の立場だった。やっぱり、ショックを受けているようだ。
私も陽太もその場から動くことが出来なくなって、しばらくそのまま居間に座っていた。壁にかけられた、時計の針の進む音だけが響いていた。
*
その後も二人で居間にいたところ、やがて母がやって来て私たちに言った。
「綾、書類は終わったんでしょ?陽太さんも、おつかれさま。明日東京に帰るんだから、二人でどこか行ってきたら?うちの車は綾も保険に入ってるから、運転してもいいし」
母からの提案に陽太はあまり気が乗らないようだったが、確かにこのまま家にいてもやることは無いし、気分転換に出かける方がいいかもしれない。陽太を半ば無理やり誘い出し、うちの軽自動車に乗って外出することにした。
陽太にどこに行きたいか聞いても特に希望は無さそうだったので、岩木山の方へ向かうことにした。岩木山は青森で一番標高の高い山。ちょうど紅葉が見頃を迎えつつあると、昨日の夕方のニュースで流れていた。私の家からも岩木山は見える。遠くから見ても、濃い赤や黄色に染まりつつある様子が分かった。
我が家から岩木山までは、車で1時間くらいの距離。お昼ご飯もまだだったので、近くのスーパーに寄り道しておにぎりやコロッケなどを買いながら、のんびり山へと向かった。久しぶりの運転で少し緊張するけど、それほど道も混んでいないので、安全運転で山へと向かう。その内に陽太も元気になってきて、行く途中の直売所で買ったソフトクリームを嬉しそうに食べている。
その後も車を走らせていくと、どんどん山が大きく近づいてくる。岩木山には8合目まで車で登れる有料道路があって、陽太に話すと興味がありそうだったので、そこを目的地にした。山麓の県道沿いにあるゲートをくぐって料金所で通行料を払い、有料道路へ進んでいく。すぐに上り坂になり、ぐねぐねとヘアピンカーブが連続している。50以上のカーブをひたすら登っていき、岩木山の8合目まで向かう道路だ。
右に左に、身体を揺らしながら山道を登っていく。陽太は初めての体験を存分に楽しんでいるようで、歓声を上げながらスマホで動画を撮影している。私は慣れない運転に精一杯で、更にカーブの合間、下りの車が反対車線に次々と現れるので、集中しながらハンドルを切る。
「綾さん、これすごい道だね。紅葉もすぐ近くだし、いい時に来たなあ」
陽太は呑気に自然の美しさに感動して喜んでいるが、私には紅葉を愛でる余裕はない。その後も必死に運転を続け、何とか無事に8合目に到着する。
8合目には広い駐車場と休憩所、それに9合目へと進んでいくリフト乗り場があった。リフトに乗って更に上へ向かって9合目に着けば、そこから山頂までは1時間くらいだ。小学校の親子遠足で一度だけ登りに来たけど、その時は天気に恵まれず雲で真っ白だった。
今日は、少し雲はあるけど青空が広がっていて、8合目からでも見晴らしは最高だった。駐車場の端にある展望台から下を見渡すと、紅葉に染まった山の木々が広がっていて、更にその下には津軽平野が広がっている。標高は1000メートルを超えているので結構寒いけど、秋の澄んだ空気が心地いい。
「綾さん、あれが通ってきた道かな?あっちの方に海も見えるよ」
陽太も岩木山からの景色を気に入ったようで、少しずつ場所を変えながら何枚も写真を撮っている。どうやら少しは気分転換になったみたい。少し無理やりだったけど、連れてきてよかった。
この日は3連休のなか日ということで、駐車場はそれなりに車が停まっていた。家族連れや、紅葉の写真を目当てにしたカメラマンの姿がちらほら見える。
駐車場から少し上の方に歩いていくとちょっとした公園のような場所があり、陽太に声をかけて行ってみることにした。歩いて登っていくと、そこでは先に写真撮影をしている男女の二人組がいる。二人ともスマホで写真を撮ろうとしている所だったが、男性の方に見覚えがあった。
「あれ、遼平?」
久しぶりに見た顔に、考えるより先に口から声が出てしまう。声をかけられた男性は一瞬こっちを訝しげに見て、パッと表情を変えた。
「おお、綾か?久しぶりじゃん!帰って来たの?」
「うん、連休でちょっと帰省してるの。すごい久しぶりだね」
遼平は、私の小学校と中学校の同級生だ。中学校のときは一緒に生徒会をしていて、同級生の男子の中では一番会話をしていた仲だった。高校は別々になったので、それ以来会う機会はほとんどなくなった。確かこっちの大学に進学して、そのまま地元の市役所に就職していたはずだ。
「こんな所で会うとはなあ。そちらは彼氏さん?」
「そう、せっかくだからここに連れてきたの。遼平も彼女さんと?」
「あ、いや、オレは昨年結婚したんだよね」
「あ、そうなんだ!それは知らなかった、おめでとう」
お互いに初対面の面々の挨拶を済ませて、4人でそのまましばらく雑談をした。ひとしきり話していると少し身体が冷えてきたので、駐車場の奥にある休憩所の建物へ移動する。遼平の奥さんと陽太がそれぞれトイレに行ったので、少しの間遼平と二人で話をした。
「綾は東京の人と結婚するのかあ。オレも東京で暮らしてみたかったなあ」
「結婚は、したいと思ってるけど、まだ分からないよ。具体的には決まってないし」
そう、まだ先のことはよく分からない。ついさっきまで、郷の湯のことで父から反対されたばかりだし、現時点では状況がどうなるか何とも言えないので、黙っておくことにする。
「まあでも、近々そうなるんでしょ。彼氏さん、いい人そうだし、よかったじゃん。オレも東京に行けばよかったかなあ。こっちは、年々さびれる一方だし」
「市役所の職員なのに、そんなこと言っていいの?」
「もちろん仕事の時は、そんなこと言わないけどさ。でも、そう感じることは多いよ。最近は、市役所の採用試験さえも志望者が減って来てるし」
遼平が、ベンチに座って顔をしかめながら話す。
「オレが今担当している仕事のひとつに、都会に住んでる人にこっちに移住してもらって、地域の情報発信や企画とか手伝ってもらう人を募集する、っていう事業があるんだけどさ。立場としては市役所の臨時職員になるんだけど、先月までの応募期限に、誰も申し込んでこなかったわけよ。上司からもどうにかできないかって言われてるけど、どうにかって言われてもなあ。無理やり移住してもらっても意味ないし」
そう言って、遼平がため息をつく。遼平は真剣に悩んでいるようだったが、「中学生のときはバスケ一筋だった遼平が、今や市役所職員になってちゃんと働いてるんだなあ」と全然別のことをぼんやり考える。
「まあでも、こっちはこっちで楽しくやってるよ。春香とか将とか、中学校の生徒会だったやつらのこと覚えてる?あいつらは教員免許取って、最初は県外で就職したけど、今は青森に戻って来て先生やってるよ。あと生徒会長だった匠も、実家のりんごを継ぐためにサラリーマン辞めて、去年戻って来たし」
遼平の口から10年以上ぶりに懐かしい名前がどんどん出て来て、懐かしい気持ちになる。皆、県外で生活していると思っていたけど、青森に戻って来てるんだ。
「この前久しぶりに匠に会って、体格は太ったけど、中身はあまり変わってなくて安心した。郷の湯にも、二人で入りにいったよ。車で遠くの温泉に行ったりもするけど、やっぱり昔から入ってる郷の湯はいいよなあ」
「本当?ありがとう。それは嬉しい」
遼平と私の家は近いので、子どもの頃から遼平がよく郷の湯に入りに来ていたのを覚えている。でも、今でも入りに来てくれているのは全然知らなかった。子どもの頃から大人になるまでずっと通ってくれていると聞いて、胸が温かくなった。
「今は設備故障で休業中だよな。再開したら、すぐまた入りに行くわ」
「うん、ありがとう。たくさん入りに来て」
遼平としっかり話をするのはかなり久しぶりなのに、今でも自然に話すことが出来て何だか嬉しくなる。当たり前だけど、あの頃は子どもだった同級生たちもみんな大人になって、頑張ってるんだ。何人か青森に戻ってきていることも、嬉しい驚きだった。
そうしてる内に陽太と遼平の奥さんが戻って来たので、そろそろ帰ることになった。今度、タイミングが合えばみんなでご飯でも行こう、と連絡先を交換した後、それぞれの帰り道に向けて出発した。
*
そして翌日、3連休の最終日。新青森駅へ向かう時間になった。また母に送ってもらうことになり、車に荷物とお土産を積み込む。
父は今日も郷の湯で打ち合わせがあるので、実家で私と陽太に別れを告げた。昨日、郷の湯の話をしてから少し気まずい雰囲気になっていたけど、帰る頃には、二人とも明るく話をしていた。
「陽太くん、昨日は色々言っちゃったけど、再開したらまた入りに来てくれよ。年末までには再開できる見通しだから、正月にまた来てくれてもいいし」
「はい、ありがとうございます。また入りに来ます」
父に別れを告げて、実家を後にした。新幹線のホームまで見送りに来てくれた母に最後まで手を振り続け、はやぶさ26号は出発した。夕方の4時すぎには東京に着く予定だ。
新幹線の中で陽太は、窓の外をぼうっと見つめていた。話しかけようとしたけど物思いにふけっている様だったので、やめておく。何について考えているかも分かっていたし、すぐにかける言葉も見つからない。
そのまま特に話すこともできないまま、東京駅に到着した。新幹線の改札から出て、在来線の方へ向かって歩く。混雑しているところを抜けた後で、陽太に声をかけた。
「今日は、自分の家に帰るね。今回も一緒に来てくれてありがとう。本当に助かった」
「うん、綾さんも、おつかれさま。ゆっくり休んでね」
「明日から仕事だけど、また週末にご飯でも行こう。また連絡するから」
そう告げて、それぞれ家へ帰る電車のホームへ向かった。今日は疲れているだろうし、郷の湯のことについてはまた今度会った時に、ゆっくり話そう。そう思っていた。
しかし結果的に、この青森から帰った日を最後に、その後しばらく陽太とは会えない日が続くことになった。
***
次の話(最終話)
サポートは温泉ソムリエとしての活動費に使わせていただきます!応援の気持ちをいただけたらとても嬉しいです。