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『温泉とプロポーズ』第1話

あらすじ

青森出身の雪平綾ゆきひらあや (29)は大学進学を機に地元を離れ、今は東京のIT企業で働いている。会社の同期として出会った陽太(29)と恋人関係になって3年が経ち、もうすぐ結婚を考えていた。

8月の頭、綾の両親へ挨拶するため二人で青森へ向かう。綾の実家は温泉銭湯「さと の湯」を営んでいる。綾の両親が二代目だが、父母ともに年齢は70近くなり、体力の限界とともに廃業を見据えていた。

郷の湯に入浴した陽太は、綾の父から温泉への想いを聞き、「継ぐ人がいないなら、自分が郷の湯を継ぎたい」と言い出す。東京で結婚生活が始まると思っていたのに、急な提案に戸惑う綾。二人の結婚は果たしてどうなるか。


 8月の最初の水曜日、東京駅。私は恋人の陽太と二人で、東京から青森へ向かう始発のはやぶさに乗り込んだ。朝6時台の早い新幹線だけど、出張と思われるサラリーマンや、旅行へ向かう家族連れなどで、車内の座席はほぼ埋まっていた。
 一週間のど真ん中に休みを取るのが一苦労だったが、何とか今日と明日の二日分の休みを無事に勝ち取った。私の仕事は比較的落ち着いていたが、陽太の方は無事に休みが取れるかどうか、直前まで分からない状況だったらしい。予定通り、二人で青森へ向かうことができてほっとした。

「綾さん、これ食べる?」

 久々の新幹線にうきうきしている陽太は、さっきホームの売店で買ったトッポを早くも開けようとしている。私に勧めているふりをして、実は自分が食べたいのだろう。いつもチャンスがあると甘いものを食べているな、と思いながら、一本受け取った。
 陽太と私は、同じ会社で働いている同期の関係。IT関連の会社で、二人ともシステムエンジニアとして働いている。最初に同期として顔を合わせたときには特別な印象は無かったが、新人研修のグループワークや飲み会を経て、気づくとよく話すようになっていた。その後、研修が終わって別々の部署に配属された後はお互い仕事に慣れるのが精いっぱいで、しばらく会う機会は無かった。
 転機があったのはそこから約2年後、入社して3年目の夏。久しぶりに同期入社のメンバーで集まることになり、20人くらいで居酒屋へ行った時に再会した。久々に会っても、やっぱり陽太とは波長が合っているように感じた。その日は一次会から二次会、三次会のカラオケまで行ったが、ほとんどの時間を隣の席で過ごした。
 それから、退社後に待ち合わせをして食事に行ったり、休日に予定を合わせて一緒に出かけたりするようになった。入社してからというもの、友人からの紹介で何人かの男性と会ったり食事に行ったりしたが、これまでしっくり来る男性はいなかった。一方、陽太とは話も合うし、見た目は特別かっこいいわけではないが、好感の持てる感じ。よく会うようになって半年が経った入社3年目の終わり頃には、この人と付き合いたいな、と思うようになった。
 しかし、その後何度か二人で会っても一向に進展は無かった。とある日曜日、侵略に来たはずが地球の女性と恋に落ちてしまう宇宙人のSF映画を二人で観た後に、スペインバルへ飲みに行った。最初は映画について語り合っていたけど、段々酔って来て勢いがついてしまう。そして「私とどういうつもりで会ってるの?私、時間は無駄にしたくないんだけど。付き合う気があるの?」と陽太に詰め寄ったところ、半ば押しに負けたような形で陽太から「付き合ってください」という言葉を引き出した。今年で、交際して4年目になる。

「やっぱり新幹線は冷房が強めだね。寒くない?」
「ちょっと寒いけど、大丈夫。カーディガンもあるし」

 冷房が苦手な私を気遣って、陽太が声をかけてくれる。二人とも年齢は同じく今年で29歳なのに、付き合ってすぐの頃から陽太は私のことを「さん」付けで呼ぶ。別に嫌じゃないのでそのままにしているが、ふと気になって聞いてみた。

「ねえ。実家でも私のこと、綾さんって呼ぶの?」
「そりゃそうでしょ。むしろ両親の前で呼び捨ての方が、失礼じゃない?」
「そうかもしれないけど、綾さん、なんて呼ばせていたら、いつも私が偉そうにしていると思われちゃうかも」
「実際に偉そうじゃん」

 軽口をたたく陽太の脇腹をこぶしで小突いたが、最近太ってきた腹の肉に跳ね返される。陽太はスマホを前の座席のポケットに入れて、背伸びをした。

「やっぱり、東京から青森は遠いね。ちょっと眠くなってきた」

 腕を組み、頭を窓の方に傾けて目を閉じた。これから彼女の両親に会いに行くというのに、緊張しないんだろうか。普段からマイペースなところがあって少しやきもきする時もあるが、こういう度胸があるのはちょっとうらやましい。
 今回の帰省の目的は、私の両親に初めて陽太を紹介することだった。私と陽太との間では、来年あたりに結婚したいね、と何となく話し始めている。正式に結婚を決める前に一度くらいは顔を合わせておこうと思い、一緒に帰省することにした。
 陽太が眠る姿ごしに、猛スピードで走る新幹線の窓の外に目を向けた。はやぶさは、ちょうど福島を過ぎたところだった。東京や大宮にあったような高いビルはなくなり、田んぼの間にぽつぽつと家が並んでいる。今年の夏もかなりの猛暑で稲の生育に影響が出ていると、朝にテレビが伝えていたことをぼんやり思い出す。
 実家に帰るのは、およそ一年半ぶりだった。いつもは毎年正月に帰っているが、今年は年末年始だけ稼働が止まるシステムの大規模メンテナンスがあり、正月休みもなく休日出勤だった。入社して以来の大がかりなメンテナンス作業だったが、何とか無事に乗り越えた。最初はシステムのことなど何も分からない素人だったのに、気づけば今年で入社7年目。社内でも少しずつ信頼を得て、中堅の仲間入りくらいにはなれている、と思う。
 ぼんやりと仕事のことを考えながら再び陽太を見ると、既にぐっすり睡眠中だった。お前は私の親に挨拶する時の言葉でも考えておけよ、と思いながら、だんだん自分も眠くなる。次に目が覚めたときには七戸十和田駅を通過したところで、次は新青森に到着します、というアナウンスが流れていた。

 新青森駅に到着して新幹線の改札を出ると、エスカレーターの横に展示されているねぶたの前で、母が待っていた。私と陽太を見つけ、手を振りながら近づいてくる。

「こんにちは、お疲れ様です。この度は遠いところ、わざわざありがとうございます」
「初めまして、中川陽太といいます。いつもお世話になっております」

 まるで取引先同士のような挨拶だが、少し言葉を交わすとお互いに緊張は解けていった。母は、初めて娘の彼氏に会えて喜んでいるようだ。エレベーターを降りている間も、陽太にずっと話しかけている。

「新幹線、混んでませんでした?お腹が空いているようなら、下で何か食べていってもいいけど。コロッケでも買わない?にんにぐきいで、おいしいよ」

 母は陽太の前なので口調が丁寧になっているが、会話の節々に津軽の訛りが少し出ている。母はそこまで訛りが強いわけでもないので、陽太とも普通に会話が出来ている。例えば訛りの強いお年寄り同士の会話だと、私でも何を言ってるのか全く聞き取れない。
 陽太がコロッケにかなり興味を示していたが、一度お土産売り場へ入ると新青森駅から出発するのがかなり遅くなりそうだったので、二人を急かして駐車場に向かった。車に乗り込んでからも、母は陽太に話しかけ続ける。

「青森は初めてですか?せっかくなので時間があれば、あちこち連れて行きたいけどねえ」
「学生のときに、一度ねぶた祭を見に来たことがあります。すごい立派だったのでよく覚えてますよ」
「ああ、そうですか。ずっとねぶたを展示してる施設もあるんだけど、そこに寄ってから行きます?」

 このまま青森観光ツアーが始まりそうな勢いだったので、慌てて本来の目的を思い出してもらう。

「ちょっとお母さん。一泊しかしないんだから、あまり寄り道しないで。まずはこのまま家に向かってよ」
「そう?確かにそうかねえ。じゃあ、家に向かいますね」

 危ないところだった。せっかく実家の定休日に合わせてわざわざ東京からやってきたのに、本来の目的を達成せずに帰るわけにはいかない。

 私の実家は、「郷の湯」という温泉を営んでいる。いわゆる銭湯だけど、自前の源泉をかけ流しで利用している、温泉銭湯だ。私は子どもの頃から郷の湯に入っていたので、銭湯といえば温泉だと思っていた。東京に出てから、お湯を沸かした銭湯がメジャーだということを知って驚いた。
 実家は新青森駅から車で1時間ほどのところにある。郷の湯は地域に一つだけの温泉で地元の人たちが主に利用しており、毎日来る常連さんが多い。祖父が開業して、二代目として父と母が、近所に住むパートさん達と一緒に切り盛りしている。
 そして郷の湯は、第一水曜が月に一度の定休日。この日くらいしか落ち着いて会うチャンスがないので、週の真ん中にわざわざ休みを合わせて青森へやって来たのだ。

「お父さんも、一緒に迎えに来れたらよかったけどねえ。役所に行く用事があって来れなかったのよ。でももう帰ってると思うから、先に一杯やってるかも」
「ちょっと、挨拶に来たのに大丈夫?ちゃんと話できるよね?」

 父も母も、一人娘が初めて東京から彼氏を連れてくるというのに、それほど緊張していないらしい。電話で先に話したときも、むしろ会えることを楽しみにしているようだった。
 実家まで半分くらい来たところで、途中にある道の駅に行こうと母が言うので、休憩も兼ねて寄ることにした。

「色々お店があるね!」

 車から降りた陽太の声が弾んでいる。バイパス沿いにあるこの道の駅はお土産から野菜や果物、手作りの蕎麦や味噌、たこ焼きやソフトクリームなどお店のラインナップが豊富で、地元でも人気の場所だ。陽太は大きな道の駅に来ること自体が新鮮なようで、既に目を輝かせている。

「あんた達、好きなところ見ててちょうだい。ちょっと野菜見てくるから」

 そう言い残して、母は直売所の方へ向かった。陽太はあちこちのお店を巡りながら、アップルパイやホタテの乾物など、目に入ったものをどんどん買う勢いだ。もうすぐ夕飯の時間だからと説得して買うものは最小限にし、休憩スペースのベンチに座って母を待つことにした。

「へえ、中にあんこが入ってるんだ。香ばしくておいしい」

 陽太は、色々見た中でも一番気になったらしい、しとぎ餅を早速食べ始めていた。あんこの入った平べったい餅を鉄板で焼いた、この道の駅の名物だ。

 「しとぎ餅って青森の郷土料理?」と陽太に聞かれたが、私もよく分からない。小さい頃からたまに食べていたけど、確かに地元以外では見たことがなかった。答えを考えている間に、陽太は一個食べ終えている。

「平日なのに結構人がいるんだね。綾さんは小さい頃からよく来てたの?」
「そうだね。向こうに公園もあるし、よく遊びに連れて来てもらったよ。他に行く場所もそんなにないし」
「いい所だもんね。僕も近くにいたら、いつも来ちゃうなあ」

 本当に魅力的に見えているようで、陽太はきょろきょろと辺りを見まわしている。私は子供の頃から来ているのでそれほど新鮮さはないが、楽しんでいるようで嬉しい。ふと、陽太が私の方を向いて聞いてくる。

「綾さん、青森に帰りたいと思ったことはないの?」
「いやあ、それは無いかなあ。もう東京での生活も慣れてきたし、第一仕事があるからね」
「でも、青森を離れてからもう結構経つよね。戻りたいなあ、とか、恋しく思わない?」
「うーん、ないかなあ。今戻っても、不便で生活できない気がする」
「そうなんだ。こんなにいい所が地元だったら、僕は帰りたいけど」

 もちろん、地元に帰ってくると懐かしい気持ちはある。ここでしか食べられない味も心に残っている景色も、たくさんある。それでも、東京の暮らしに慣れた今となっては、青森に戻って生活することはイメージ出来なかった。
 そこに、買い物を終えた母が戻ってきた。

「お待たせ。ごめんね遅くなって。陽太さん、これ食べる?」

 野菜でいっぱいの買い物袋の隙間から、しとぎ餅の5個入りのパックを取り出す。陽太は手を伸ばしそうだったが、今食べるのはやめておきなさい、と釘を刺して車に乗り込み、3人で家へと向かった。

 うちの実家は、郷の湯と同じ敷地内の、すぐ隣に建っている。到着すると、郷の湯の前には定休日の看板が表に掲げられていた。

「定休日だけど、温泉には入れるようにしてありますから。後でゆっくり入ってくださいね、陽太さん」

 家に入って居間へ進むと、予想通り父は既に缶ビールを空け、さきいかの乾物をつまみに晩酌を始めていた。

「おお、いらっしゃい。ようこそ我が家へ」

 父は立ち上がり、陽太と握手をした。ビール一本で顔を赤くしている。

「来るまで我慢するがと思ってたんだけど。いつも定休日にビールを飲んでいるもんで、先に始めてしまいました。綾の父の卓司といいます」
「初めまして、陽太です」
「遠いところ、こんな田舎までありがとうね。陽太さん、お酒は飲める?」
「ありがとうございます、頂きます」

 陽太は東京からお土産として持ってきたラスクを渡す間もなく、早速テーブルに座ってビールを注がれている。まずは挨拶とか色々あるんじゃないかと思うけど、これはこれで話が早くていいのかもしれない。
 そのまま夕食を取ることになり、母と一緒に台所から料理を運び込む。枝豆やトマト、とうもろこしの天ぷら、ほたてとたこの刺身などが載った皿を、次々と台所から居間へ持っていった。

「それでは、陽太さん、ようこそいらっしゃいました。乾杯!」

 父が乾杯を宣言する。一人娘が彼氏を連れてくるとなれば厳しい態度になるかと思っていたが、そんなことはなく父は上機嫌で、拍子抜けだ。でもスムーズに顔合わせができたから、よかったと思うことにする。父は陽太に問いかける。

「綾と一緒にいて、どんですか?」
「はい、おかげさまで。いつも楽しく過ごしています」
「そうですか。誰に似たんだか、たまに言葉がきつくて。喧嘩になりませんか?」
「たまにはありますけど、いつも頼りになって、心強いです。色々助けてもらっています」

 初めて話す父からの質問にも、陽太はきちんと受け答えをしている。陽太は普段口数が多い方ではないが、けっこうコミュニケーション能力は高いと思う。こういう時は任せておけるので安心だ。

「陽太さんみたいにちゃんとした人を選ぶとは、綾も成長したよな。高校生のときに連れできた彼氏なんて、金髪にピアスしたヤンキーみたいな男で、挨拶もしねくて、何だばこいつって思ったや」
「ちょっと!余計なこと言わないで。あれはやんちゃだっただけで、ヤンキーじゃないし」

 私の昔話をべらべら話しそうなので、慌てて止める。父は肩をすくめて、陽太と目を合わせて笑う。そこに、母がまた追加の大皿を持ってきた。茶色くてゴツゴツした揚げ物の料理を見つめて、陽太が問いかける。

「これは何ですか?唐揚げ?」
「これは、いがメンチ。青森のイカと、玉ねぎや人参なんかを細かく刻んで、油で揚げたの。こっちではよく食べるんですよ」

 母は料理の説明しながら、ようやく席に着く。陽太は早速いかメンチを一つ、熱そうにしながらほおばる。
 やがて父も陽太と打ち解け、食べながらあれやこれやと次々問いかける。夕方に到着してから、気づけば2時間以上が経っていた。

「もう、こんな時間になるんだね。あんた達、先にお風呂入ってきたらいいんじゃない?」

 母に言われて、三人で郷の湯へ行くことにした。父と陽太は一緒に入るらしい。裏の勝手口から外に出て、温泉の方へ向かう。家にも一応普通の浴室はあるが、昔からお風呂といえば郷の湯で入っていた。
 郷の湯のお湯はほぼ無色透明だけど、少しずつ見た目が変わっていく。湯口から浴槽に入ったばかりの時は透明に見えるくらいで、そこからお湯が溜まっていき、お客さん達が入ってお湯と空気が混ざりあっていくと、段々と白に少し緑が混ざったような、やさしい色に濁っていく。
 浴室に入ると、お湯の香りをふんだんに感じる。玉子のような香りに似てるけど、もう少しまろやかで甘い感じ。身体を洗って、長方形の四角い浴槽に身を沈めた。お湯は口に入ると少ししょっぱい。熱すぎず適温で、久々に入るお湯に身体がとろける。
 サウナも水風呂も他にないシンプルな浴室だけど、このお湯だけで十分。よく効くお湯で、気を抜いているとのぼせそうになる。東京に住んでからも近所の銭湯や近場の温泉によく行くけど、やっぱり私にとって郷の湯の温泉は格別だ。
 湯船に身を沈めていると、隣の男風呂から陽太と父の声が聞こえてくる。男同士の裸の付き合いという感じで、盛り上がっているようだ。内容は、音がくぐもってよく聞こえない。また余計な昔話でもしていなきゃいいけど。  
 程よく温まったところで、先に浴槽から上がって、家へ戻った。台所を覗くと母が食器を洗っているところだったので、一緒にシンクに立って手伝う。

「布団、部屋に敷いておいたよ。お父さんたちまだ入ってるの?」
「そうみたい。何だか盛り上がってたよ」
「仲いいねえ。陽太くんも人懐こいから、お父さんも嬉しそう」

 二人はしばらく待っていてもまだ帰ってこない。しばらく居間で待っていたが、段々眠くなってきてしまった。まだ夜の10時前だけど、朝一番の新幹線に乗るためにいつもより早起きしたし、久しぶりに郷の湯に入って気持ちよかったから、身体の力が抜けている。
 温まった身体の温度が下がっていくにつれて、どんどん意識がぼーっとしていく。大きな欠伸をする私を見て、母が言った。

「あんた先に寝たら?陽太くんが来たら、2階に案内するから」
「うーん、そうしようかな。もう限界かも」
 全然戻ってこないし、お言葉に甘えて先に布団へ行くことにする。二人で盛り上がっているみたいだし、仲良くやってるので大丈夫だろう。私だったらもし恋人の実家に初めて行って先に寝られたら怒るけど、こういう時に任せておける陽太は素晴らしい。
 歯を磨いて2階にある自分の部屋にいくと、私が高校生の頃から使っているベッドと、その横にお客さん用の布団がきれいに並んでいた。ベッドに入ると、一瞬で本格的な眠気に襲われる。スマホを充電することもできずに、そのまま眠りに落ちた。


 
 次の日の朝、7時ごろ目を覚ます。ベッドから下を見ると、陽太はすでに布団から身体を起こしていた。

「おはよう。昨日、先に寝ちゃってごめんね。何時に寝たの?」
「うーん、昨日は・・温泉から出て、その後も少し飲みながら話してたから。寝たのは1時くらいだったかな」
「え、そんなに起きてたの?遅くまでごめんね、ありがとう」

 陽太の口調はいつもよりゆっくりで、反応が鈍い。さすがに少し寝不足のようだ。しばらく布団でうとうとしていたが、一階から人が動いている気配がするので、二人で降りていった。台所で、母がパタパタと朝食の準備をしている。

「おはよう。陽太さん、昨日はお父さんに付き合ってくれてありがとうねえ」
「いえ、貴重な話をたくさんして頂きました。おはようございます」
「そんな大そうなお話はしてないと思うけど、お父さんも嬉しかったみたい。遅くまでごめんね」

 二人で顔を洗ってから、台所に並んで座る。テーブルには焼いた鮭やにんじんの子和え、トマトなどのおかず、それにご飯と味噌汁が並んでいた。味噌汁の具はねぎと、白身魚のすり身団子。私が子供の頃からの好物で、東京から帰省するときには大体これが出てくる。

「お父さん、今日はもう温泉の方に行ってるよ。陽太さん、よかったら帰る前にもう一度入っていってくださいね」
「はい、絶対入っていきます。昨日お父さんにも教えてもらいましたけど、青森のお風呂は朝早くからやっているんですね。東京だとお昼とか午後からの所が多いので、驚きました」

 私も大学時代に初めて東京に住み始めたときは、銭湯が午後から営業と知って驚いた。青森では、銭湯スタイルの温泉は朝の6時、7時頃から始まっている所が多く、早いところでは5時から営業している。
 郷の湯の営業時間は、朝7時から夜9時まで。手伝いのパートさんもいるとはいえ、父と母の二人で毎日温泉を営業するのは大変なことだ。以前は朝の6時から営業していたけど体力の問題もあって、今は7時からになった。

「ご飯足りた?おかわりいらない?枝豆もまだあるけど出そうか」
「もうお腹いっぱいだよ」

 放っておくと朝食がいつまでも出てきそうだったので、ごちそうさまを伝えて部屋に戻る。今日の午後の新幹線で東京へ戻るので、そろそろ出発の準備をしなければいけない。
 荷物をまとめて一階に戻ると、母が「明日も休みにして、ゆっくりしていけばよかったのに」とぶつくさ言っている。私もそうしたかったが、陽太の方が毎週金曜に顧客への報告会があり、どうしても調整がつかず休みには出来なかった。無事に青森まで来れただけでもよしとしよう。

「綾さん、もう一回温泉入ってきてもいい?荷物の準備は終わってるから」
「いいけど、あんまり長風呂しないでね。9時半には出るから、あと1時間くらいだよ」
「そんなに入らないよ。綾さんもいく?」
「私はいいよ」

 本当はもう一回くらい入りたい気持ちもあるけど、身支度もしないといけない。結局、陽太に一人で行ってもらうことにした。昨日も長風呂したくせによく入るなあと思いつつ、郷の湯の温泉を気に入ってくれたことが嬉しい。
 居間へ行くと、母は、私たちへのお土産用に野菜やらお菓子やら、タッパーに入ったおかずやらを準備中だった。銀色に光る保冷用のバッグが、パンパンに膨らんでいる。いつも東京へ戻るときには色々持たせてくれるが、今回は陽太もいるので、なおさら気合が入っている。

「りんごジュースもあるけど、持っていく?」
「もう持っていけないって。駅でもお土産買うんだし」
「陽太くんもいるんだから、まだ持てるでしょ。仏壇にあるお菓子も、食べたいのあったら持っていきなさい」

 気づけば私と陽太の旅行カバンの隙間にも、マドレーヌやら羊羹やらが詰め込まれていく。我が家の仏壇に昔からあるお菓子のラインナップ。
 しばらくしても陽太が戻ってこないので、玄関から出て郷の湯の方へ行ってみる。中を覗いてみると、温泉から上がったらしい陽太が、番台にいる父と二人で話していた。朝のピークの時間帯は過ぎて、今の時間帯はお客さんもそれほど多くない。

「おーい、もう少しで出発するよ」

 何やらやりとりをしている二人に話しかけると、揃って顔を向けた。

「二人とも、昨晩も遅くまで話していたのに、よく話すことがあるね。何の話してたの?」
「まあ、温泉を運営するのがどれだけ大変かっていうのを語っていたら、止まんねぐなってまった。綾は、聞いてきたこともねえし」
「私は温泉に入るのが好きだからね。陽太とそんな話してたの?」
「そんな話とはなんだ。郷の湯の一人娘だっていうのに。ひといべ?陽太くん」

 これ以上長引くといよいよ新幹線に遅れそうなので、陽太を急かして車へ向かうことにする。

「陽太くん、まだ来いへ」
「はい、また入りに来ます。どうもありがとうございました、お世話になりました」

 父に別れを告げて、荷物を母の車に詰め込み、また新青森駅へと送ってもらった。無事にお土産売り場で会社の人たちに向けたお土産も買って、予定通りの新幹線に乗り込む。母は、新幹線のホームまでわざわざ見送りに来てくれた。「結婚の予定が決まったら教えてね」と言いながら、新幹線から見えなくなるまでホームから手を振っていた。

 何はともあれ、無事に両親への挨拶が住んでよかった。陽太の方を見ると、さすがに気疲れもあったのだろう、出発して5分くらいで既に眠っている。私も、無事に目的を達成できた安心感で、眠くなってくる。二人でぐっすりと眠りに落ち、目を覚ましたときには上野に着くころ。あっという間に、私たちは東京に戻った。

 新幹線の改札を出た後、丸の内線と半蔵門線を乗り継ぎ、二人で陽太の家がある清澄白河へと向かった。私の家は調布にあり、陽太の家の方が東京駅から近い。青森から持たされたお土産が重くて、自分の家に帰るよりも近い方を優先した。私たちの会社は浜松町にあるので、明日の出勤も陽太の家からの方が楽ちんだ。新幹線で旅行から帰って来た時は、よく陽太の家に泊まっている。
 清澄白河の駅に着いた。地上に出てすぐ見えてくる橋を渡り、歩いて陽太の住むアパートの方へ向かう。青森を午後の2時すぎに出発して、今は6時過ぎだ。橋から眺める川に、夕焼け空がきれいに映っていた。この辺は新しいお店や建物が出来ておしゃれな雰囲気があるけど、流れる川や路地裏の小さい道にはゆったりとした時間も流れていて、好きな街だ。
 陽太の方を見ると、何も話さずにただ自分の家の方へと進んでいく。さすがに青森への1泊2日の行程は、慌ただしくて疲れたのかもしれない。15分ほど歩いてアパートに着き、3階にある陽太の部屋の玄関で荷物を下ろす。

「着いたー。重かったー」

 とりあえず部屋の隅に荷物を寄せて、少し休憩。本当は荷ほどきをして、野菜や惣菜を冷蔵庫に入れないといけないが、さすがに疲れた。冷蔵庫の麦茶をコップに注ぎ、テーブルに置く。

「疲れたね。陽太、青森まで来てくれてありがとう。大変だったでしょ」

 陽太に話しかけるが、「うん、大丈夫」という一言を返すだけ。何だか、さっきから口数が少ない。別に怒っているわけではないみたいなので、やっぱり疲れているんだろうか。もしくは、明日またすぐ会社に行くのが嫌なのかな。それは私もよく分かる。

「陽太、疲れた?今日は早く寝ようか。ご飯は、お母さんが持たせてくれたやつがあるし。その後、銭湯でもいく?」

 陽太のアパートの近くにも、銭湯がある。少し混みあっているけど、ジェットバスや日替わりの薬湯もあって、疲れているときにいつも助けられている。銭湯でさっぱりして、明日に備えて早く寝るのがいいかもしれない。と、その時陽太が話し始めた。

「あのね、綾さん。」
「うん、どうしたの?」
「ちょっと、話したいというか、相談があるんだけど」
「どうしたの?聞くよ」

 陽太の方を見ると、真面目な表情をしていた。ただ疲れているだけかと思っていたが、何か考え込んでいる感じだ。私の中で、話を聞くモードに切り替える。陽太は話し出すのを迷っているようだったが、少し後に口を開いた。

「郷の湯のことなんだけど」

 郷の湯のこと?

「どうしたの?なんか嫌なことでもあった?」
「いやいや、そうじゃなくて。昨日初めて入ったばかりだけど、郷の湯の温泉は本当によかった。それに、綾さんのお父さんもお母さんも本当によくしてくれたし、すごくいい所だったよ」

 うちの温泉や青森について、こんなに褒めてくれるとは嬉しい。でも、陽太がどこに話を持っていこうしているのか読めなくて、黙って話を聞いた。

「綾さんのお父さんの話を聞いて、温泉を運営するのがすごく大変なことだというのも分かったけど、やっぱり郷の湯のことを誇りに思っているのも、伝わってきたよ。お父さんの代限りで辞めるつもりだっていう話もしていたけど、本音は嫌なんだと思う。それでね」

 陽太は、少し不安そうな顔で、まっすぐ私を見つめながら、こう言った。

「僕、郷の湯で仕事をして、いつか郷の湯を継げたらな、と思うんだ。綾さん、一緒に青森で暮らすというのは、どうかな」

 陽太の言葉は耳に届いていたが、すぐには反応できなかった。内容が予想外すぎて、すぐに言葉を返したいのに、何も言えずに固まってしまう。アパートの外から、野良猫の鳴き声が聞こえてくる。
 さっきまでのきれいな夕焼けはいつの間にか沈んで、部屋の中は薄暗くなっていた。そろそろ電気を点けないといけないとぼんやり思ったが、その場から動けない。台所の床に置いていたお土産の袋がバランスを失い、音を立てて倒れこんだ。

***

第2話

第3話

第4話(最終話)


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鎌田よしふみ|青森の温泉ソムリエ♨
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