温泉学講座 in Kannawa No.7
温泉学講座 in Kannawa 第7回(2022/10/8)は、
e-温泉マイスターの円城寺健悠さんによる
「鉄輪の記憶―時空の旅―」でした。
世代を超えて永続的な価値を有する記録を評価選別し、
次の世代に伝えるアーキビスト(archivist)が鉄輪の記憶を紹介しました。
日時:2022年10月8日(土)13:00〜14:30
場所:熱の湯2階集会所
講師:e-温泉マイスター 円城寺健悠
1.はじめに
2.鉄輪の今と昔~写真・絵葉書を通して~
①「鉄輪の記憶」写真展
②「紡ぐ、鉄輪展。」『〇』
3.文献史料から読み解く鉄輪の歴史
4.「鉄輪の記憶」を記録(アーカイブズ)として残すためには?
5.おわりに
※チャレンジショップスクランブルベップ(鉄輪)
鉄輪温泉場 蒸の湯(大正中期~昭和初期)
蒸し湯には、時宗の開祖である
一遍上人(1239~1289)の開湯伝説が残る。
本来、「風呂」といえば蒸し風呂のことを指し、
お湯につかるものではなかった。
瀬戸内海沿岸には蒸気浴を行うための
古い石風呂がたくさん残っている。
鉄輪の蒸し風呂も、
このような入浴法の古式を伝えるものだ。
鎌倉時代(1276年頃)
時宗の開祖である一遍上人が
地獄を鎮め、
「温泉療養の場」として鉄輪を開いた。
一遍は荒れ狂う地獄を法力で鎮め、
無量寿経・感無量寿経・阿弥陀経・法華経を
記した石を四隅に埋めて
三間四方の空間をつくり、
ここに蒸し湯を開いたという (『南豊温泉記』 明治29年 〈1896〉)
一遍は、風土記にある「大分の速見の湯」は下樋で道後に湧き出しているという話を知っており、関心を持った可能性は十分にある。
(「靏見カ嶽ニ於テ神感ノ事アリ 温泉開 病人ノ垢穢上人自手洗除シ玉フ」『麻山集』 )
「豊後国に至り、鶴見嶽のかたわらに温泉あり、
これ熊野権現方便の湯なり」(『一遍上人年譜略』 )
鶴見嶽のかたわらの湯とは、
鉄輪温泉を直接指したとはいえないが、別府の鶴見から鉄輪の湯であることは間違いない。
一遍が、「熊野権現方便の湯」と認識したことは、一遍の信仰の起点にも関わり、また、それは一遍の故郷の地
伊予の道後温泉と深く関係している。
その意味で、別府の湯は特別な温泉であった。
鉄輪が一遍によって湯治場として開かれたという伝承は事実であったとする
可能性は高い。
『別府市誌』(2003年度版)には
「縁起によると、建治2年(1276)⼀遍上⼈が 熊野権現の加護をうけて鉄輪地獄を鎮め、時宗の庵を結び、⼀遍の幼名をとって松寿庵と呼んだ」とあり、⼀遍上⼈が永福寺の開基であることが分かる。
ところが明治初年に、松寿寺(松寺庵)は住職が亡くなったあと無住になっていたため廃寺となってしまった。 その後、再興願いを提出するものの、いったん廃寺となったものを復活させることはできないと許されず、 苦⾁の策で広島県尾道の寺の名前を借りて永福寺となったのが明治24年。
⼀⽅、寺の資料によると建物の⽅は、当時狭く老朽化していたため、明治33年に建て替えの計画を⽴てた が資⾦不⾜で延び延びとなり、
本堂は明治41年に起⼯し、翌42年11⽉に完成した。
豊後鉄輪湯瀧(大正中期~昭和初期)
貝原益軒の『豊国紀行』には
「温湯の上にかまえたる風呂有、病者是に入て乾浴す。
又其辺に湯の川有。滝有。病人これに打たれて浴す。」とあり、
風呂本の蒸し湯と渋湯の滝湯(打たせ湯)の様子を伝えている。
松寿寺の山号の「湯滝山」は境内の渋湯の崖に湯の滝があったことから付けられたとあり、寺の信仰と一体をなしながら、蒸し湯と渋の湯が病人の治療場として
江戸時代の前半に知られていたことを示している。
明治38年11⽉10⽇―11⽇、鉄輪へ修学旅行に来た
杵築中学校生徒の作文が残されている(県立図書館蔵)。
修学旅行と⾔っても、
杵築から鉄輪の宿まで往復をすべて歩く⼀泊二日の徒歩旅行だった。
鉄輪に到着した彼らは、さっそく熱の湯に入浴したようだ。
――皆道具を置き湯場に行った美し事と云ったら⽬もさむるばかりである又其上に広くある。――
「目も覚めるほど美しい」と熱の湯の立派さをほめているわけだが、もしかすると、新築まもない頃だったのだろうか?
温泉場の生活風景。精米用の水車とみられる。
なお、この絵葉書は明治30年代のもので、
別府最古級の絵葉書の1枚。
かんなわ温泉場と有名なる(四極山)-名高崎山の遠望
(大正中期~昭和初期)
女性の指差す向こうに広がるのが鉄輪の温泉場。
別府湾と高崎山(古名を四極山〈しはつやま〉という)を望む景勝の地。
大平屋(大正3年)明治末~昭和40年代。
鉄輪の高等旅館として異彩を放つ
(故)佐藤文生衆議院議員、郵政大臣の実家
昭和40年代まで今は亡きヤングセンターの位置に、
鉄輪でも屈指の老舗旅館「萬屋(よろずや)旅館」があった。
いでゆ坂沿いでよろずや薬局を営む子孫の原敏久さん(61)によると、
旅館業は江戸中期から。
「皇族の流れの方もお泊まりになっていた。籠もありました。
下関、博多の豪商、田川の市長など客筋がよかった」。
「博多の人たちが泊まりに来ると、玄関前で鉦や太鼓を叩いて“どんたく”を披露し、鉄輪中の人が見に来ていました」。
昭和初期ごろ建て増した南側の棟を含めいくつかの建物があったが、3階建て部分は古く、明治35年に発行された地図を見ると、すでに萬屋が3階建てであるのが確認できる。
別府八湯全体でも、旅館の3階建てが盛んになるのは大正期から。
明治期にはまだ少なかった。
実現はしなかったが、萬屋旅館を文化財に指定するという話があった。南側の棟が比較的新しかったために文化財にならなかったと原さんは聞いているが、自衛隊の車が突っ込んで玄関を壊してしまったためとも言われている。
明治43年発行の「新撰南豊温泉記」掲載の広告には
「又眺望は高燥の三階建なれば」とあって、
3階からの眺望のすばらしさを強調している。
鉄輪地獄
鉄輪温泉街、現在の陽光荘の場所にあった
地獄。温泉療養所を設置し、ラジウム蒸気吸入、
トルコ式蒸風呂、乾式温泉場、和洋両式休憩室などの
設備があった。
鉄輪、瓢箪温泉の「瓢箪閣」(昭和初期)
創業者は河野順作という大阪の人で、
妻マツのリュウマチを治療するため、
大正11年(1922)に別府へやってきた。
鉄輪で温泉の掘削に成功した順作は、
自分が尊敬する豊臣秀吉の千成瓢箪にあやかってこの温泉を開く。
さまざまな浴場からなる「娯楽温泉」だった。
昭和2年に建てられた「ひょうたん」は高さ21m(7層)
昭和20年5月に空爆の目標になると解体された。
ひょうたん温泉はミシュラン3つ星の温泉施設として人気
鉄輪温泉バス乗り場
昭和30年(1955)に撮影された。
亀の井バスの停留所で、
当時も現在と同じ場所にあったが、
看板や建物など、今とは種類や形が異なっているものが多い。
【“地獄”は“観光地”へと変貌を遂げる】
今から、およそ1300年前、鶴見岳の大噴火が起こった。
これが、“地獄”誕生の瞬間である。当時は突然にして黒い熱湯が噴き出したり、周りの木々を枯らしてしまう、といった危険な状態が続いていた。千壽吉彦は開発した新別府別荘地に引く温泉の泉源として海地獄を買い取ったが、その青さから湯治客の関心を集めていた。そこで1910 年(明治43年)から見学料を徴取し観光施設として整備した結果、大盛況であった。
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e-ラーニングで30講座を学び、終了問題とレポートが合格すると
「e-温泉マイスター」として認定されます。
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