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20年目の9月に
【死に正しいも正しくないも自然も不自然もない。】
少し前に宇多田ヒカルさんが発言した言葉です
彼女と同じく9月は私の母の命日がある月
今年は20年目になる
母の死因は骨髄腫
彼女自身の宗教的ポリシーから輸血という選択肢がなかったために、治療がうまくできず
あっというまに病状は悪化して亡くなりました
最近よくそんなことに思いを巡らすのは
20年の節目だからか
自分が脳腫瘍の疑いがあるからか
それともなんとなく似たような親からの影響を感じる人との出会いがあったからか
母のことはそれなりに好きだったはずなのに
家族の誰も説得せず悪くなるに任せていたのは
今思い返すと背筋が寒くなるが
あの頃の私は母のことを理解した気になって諦めていた
【人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化しつづける】
私は別に今さら母を恋しく思ったり
もしくは恨みを感じたりはもうしない
けれど昔の自分の冷淡さ不器用さ
それを踏まえて今、優しくありたい
本当は自分が何を大事にしたいのかなんて
他人にわかってもらう必要はない
でも自分ではきちんと分かっていたい
母を大事にし切れなかった、そのことを受け止めて
あの子の事を理解したいと思うことは私のエゴだ
他者のことはどう足掻いてもわかった気になっても
それは結局自分に都合のいい人間像であって
どんなに近い人間でも
分かり合えるなんて幻想みたいなもの
そういう時、出来ることって自分自身を掘り下げて
なぜその他者を自分が必要としているのか
その答えを探すことなんじゃないか