阿弥陀籤式終末論
「FeX-2001軸の終末の日が決まりました」
浮かんだ画面に流れる無機質なニュース。人々はそれを特に気にするでもなく、スクランブル交差点を歩いている。
この世界が溢れた世界では終末があみだくじで決まる。宇宙がどんなに広くても、あんまりにも世界線が多いと処理機能がパンクしてしまうらしい。だから、3か月に一度こうしてどこかの軸に終末が訪れる。なぜそんなシステムが組まれたのか、それを作ったとされる阿弥陀さまとは何なのか、私たちは知らない。だって、知らなくても良いことと教えられて生きてきたからだ。
さらに言ってしまえば、終末に悲観的な要素は一ミリもない。なにせ、世界線の数だけ同じ人間がいるから。この自分が死んでも、どの自分が死んでも、有り余るほどに自分がいるのだ。成功した自分、恵まれた自分。窓際族の自分、今から自殺しようとしている自分。ありとあらゆる自分がいて、終末が訪れる瞬間もその後も、生き続けるからだ。
運命の人?あぁ、そうだね。運命ならきっと、違う世界線でも巡り会えるさ。
私はそんなことを言った人と、手を繋いでビルの屋上から夕日を眺めている。
悪人や嫌いな人と一緒に終わるのは嫌。先に二人で終わりましょう?
先に逝っている、と家族に連絡をして、私はそんなワガママを言ったのだ。世界の終わりは一瞬で、苦しみも痛みもないらしい。今から選ぶ飛び降りという名の自死は、一瞬とはいえ痛いらしい。そんな痛みを共有して、二人だけの思い出にして、私たちは終わる。
顔も知らない阿弥陀さまが決めた終わりより先に。誰が引いたのかも知らないくじが決めた運命より先に。
柵を乗り越える。手を繋ぐ。靴を置いていくのは、一種のマナーらしい。
さぁ、逝きましょう。そしてまたどこかで、生きましょう。違う世界線の私よ、どうか誤らないで。まだ先がある私よ、どうか隣の人に恋をして。
運命という阿弥陀籤を、引き寄せて。その赤い紐の先を定めるのは他でもなく、この私なのだから。
そらはこんなにも、あかいのね。