見出し画像

鮭弁当

どこから、どの気持ちから話してゆけば良いだろうか。単純に書けば、塩っぱい塩鮭を食べたくなったと云うところだ。僕が小さかった頃の塩鮭は塩っぱかった。とんでもなく塩っぱい鮭もあった。切り身の表面に塩の結晶がざりざり浮いているような塩鮭もあって、食べるとしかめっ面になるくらいに塩っぱかったものだ。そうした塩鮭を最近は見かけなくなった。そう云えば、その昔は塩鮭は魚屋で買うものではなく乾物屋で買うものであった。どこの商店街にも乾物屋と云うのがあって、鰹節や昆布や煮干し、乾麺などが売られていて、そこに魚の干物や塩鮭もあったと記憶している。年代や地域性もあると思うので正確な情報ではないが、鮮魚店と乾物屋では明らかに商品に区分けがあって、更に海苔はお茶屋さんにあって、調味料などは酒屋さんで売られていたと思う。たかだか50数年くらい前の話だが、買い物はあちこちのお店に行って揃えるのが当たり前だった。スーパーマーケットと云うのが出現してからは一所で何でも揃うようになって、買い物の手間は大きく省けるようになったが、それぞれのお店に存在したそれぞれの雰囲気(大概が薄暗い)や匂いと云った風情は大きく失われることとなった。取り戻すことの出来ないカテゴリーの最たるものだと思う。今こうして豊かさ(ホントか?)や利便性の真っ只中でそれらを享受している身でそんな懐古趣味めいたことをつべこべ云うなと思われるだろうが、こうして書いておかないとその面影すらも消え去ってしまいそうのなので書いている。僕の知らないところで何かが差し出され、代償として受け取ったものが今の世の中なのであろう。話が取り留めもなくなってきたので、塩鮭を買ってきて鮭弁当を作ることにする。

銀鮭大辛口

いつもの近所のスーパーマーケットではなく、ちょっと離れたところにある大きなスーパーに行ってみた。宮城県石巻産の銀鮭大辛口があったのでそれを買ってみた。一緒にロシア産の鮭も色々と売られていたが、何か複雑な気持ちになった。どんな気持ちだったかはもう少し時が経ってからまとめる。

銀鮭大辛口

こんがりと焼けた。好い具合かと思う。大辛口であっても、昔の塩鮭のように切り身の隅っこの方に塩が白く浮いたりはしない。そもそも塩鮭はこんなに綺麗に焼けるものであったか。もっと黒い焦げ目が付いたり、身が縮んで捩れたりするものではなかったか。勝手にそんなことを考えて塩鮭に少しだけ申し訳ないような気持ちにもなった。

弁当箱にご飯

お弁当箱にご飯を詰める。小さな弁当箱なのだが、こうしてご飯だけ詰めると結構入る。身近にあるものの容量などをしっかり把握していない好例かと思う。今後に活かしたい。

鮭弁当

焼いた鮭を載せて、鮭弁当の出来上がり。でもこれで完成ではないのだ。ここから何時間か後に食べることになる。その何時間かが重要だと考える。朝お弁当を作ってもらって学校に行き、お昼休みに食べるくらいの時間経過が必要。4時間か5時間くらいであろうか。そこも鮭弁当の重要な要素であると思う。

鮭弁当

蓋をしめる。上から少し押すようにすると、ご飯の中に塩鮭がぐっと押し込まれる感触がある。しっかり押さえて、ちょっとニヤッとした。何が僕にニヤッとさせたのかはデリケートなことなので書かないでおく。

鮭弁当

布巾で包んで数時間待つ。3分間待つのだぞ、とは昔のボンカレーのコマーシャルで笑福亭仁鶴さんが大評判を取った時の台詞。これが1972年のことだからちょうど50年前か。隔世の感もあるが、ついこの間のことのようにも思える。

鮭弁当

4時間経過。なぜかこの写真だけ大幅にピンボケした。なんでなんだろう。iPhoneのカメラは時折意固地にピント合わせを放棄することがある。以前使っていたSE(初代)も現在の12miniも同様だ。僕の使い方が悪いのか。そうなのだとしたら謝るからピントを合わせて欲しい。

鮭弁当

鮭弁当、本当の完成である。説明は前後するが、僕が高校生の頃の母親の数少ない弁当バリエーションのうちの一つがこれ。他は挽肉か豚こま肉を適当に甘辛く味付けしたのがご飯に載っているか、ウインナーだけが焼かれて入っているか、まあそんなものだったと思う。野菜っ気ほぼゼロ。カラーはおかずの茶色とご飯の白のみ。漬物や佃煮を少しでも入れてくれればもう少し見栄えが良くなろうと云うところの手間も極力省いた合理的手法。今の僕にも少なからず影響を与えたシンプル至上主義。その潔さは今では認めるが、高校生時分はとんでもなく恥ずかしく思ったものだ。その気恥ずかしさを少し懐かしく思う。最近は恥ずかしいなんてあまり思わなくなってしまったからなぁ。

鮭弁当を食らう

ウマウマウー。銀鮭大辛口、期待したよりも塩っぱくない。これで昔の塩鮭のごく普通の塩っぱさくらいだと思う。もっと塩が口の中で暴れるような、そんな期待は叶わなかった。それと同時に、何かの調味液に漬けてあるのか判らないが、最近食べる焼き鮭の味に共通するアディッショナルな旨味を感じた。そして脂もかなり乗っていて、少し贅沢が過ぎるような気持ちにもなった。まぐろ大トロ丼とかザブトン丼とか作ってウマイとか云っている奴が、脂がどうこうとどの口が云うと思われようが、鮭弁当には旨味や脂に頼らずに、もっと塩とご飯のストレートな関係性を求めていたのだった。それならご飯に塩をかけて食えよ。判りますその御意見。でも、極論では実現し得ない極論以上のものを求めて生きているのです。この小さな世界観の向こうにある広大な曖昧さ、雑さ、好い加減さを見よ。空虚で果てしなくて、とことんどうでもいい。でもそこに奇跡的に意味が生まれいずるのである。主張が変なフェイズに入ってしまった。鮭弁当に話を戻す。

鮭弁当を食らう

ウマウマウー鮭弁当に話を戻そうにも、そんなに云いたいことは残っていなかった。ぐだぐだと戯言や御託や妄想を並べたが、とにかくまあ鮭弁当はウマイのだ。塩でざりざりした塩鮭を見つけたらまたお弁当を作ってみることにする。最後に、脈略はないが、戦争反対。断固反対。盛者必衰の理を知れ。

末永くがんばりますのでご支援よろしくお願い致します♫