[2021/03/30]アートについて
こんちは、久しぶりの投稿です。
下書きはいくつか作成しておりましたが、すべて没としました。いつかブラッシュアップ(言いたいだけ)してあげ直そうかな。
今回のテーマはアートについてですが、アートとは私の中では「人が作り出したもの」が定義としてあるのでこれを前提に話を進めていこうと思います。
某東京の大学の学風?学訓みたいなものに「アーツ&サイエンス」(うろ覚えです。)を掲げていることより、人類は創造と想像をするためのものであると僕は考えました。
かねてより、人生の意味とか人類の存在意義、自分の目指すべき何か、現実社会について深く考えることが多いのですが、現代社会ではアートまみれなんですよ。実際のところ。
アートなんて美術だろっていう人はもちろんいるとは思いますし、それはそれでいいんだけど、スマホって誰が作ってんの?機械?じゃあそれを作るのは?人間。ってな感じで全部人が作り出したアートです。机も服もペンも音楽も運動場だってお菓子だってアートです。
ここまでのアートの話で、アートっておしゃれなもの、美術的、美しく、単体で為すものという固定観念を脱したところで、アートに対する私のポリシーを以下に記述していきたい。むしろここからが本編である。(書きたいことのために前提を置いてた。)
私の生きる上で大切にしていることは「ダサさ」である。
ダサいことは恥ずかしいことだと誰もが、考えているかもしれないが、誰しもが初心者であったのと同様にダサかった時期がない人はいない。
なぜダサかったひとがいないのか。それは主観客観混在するが人は変化するからである。過去の価値観と現在の価値観は何らかの要因から変化する。それが年齢であったり、メンターの出現であったりするんだろうけど。
小学生のころの服装がダサかったと思っている人もいれば、思春期の親との関わり方がダサかったと思う人もいるし、他人をディスるようにダサいと思う人もいるだろう。このようにダサいことが悪であるかのように語る者まで現れるのである。
ダサいからモテない。ダサいから仲間に入れない。ダサいから劣っているという考えが少なくとも日本においては蔓延っていると考えている。
よりスタイリッシュに、コスパ良く、いかにミニマルになんて僕の世界観には必要ない。ダサさこそカッコいい。ダサさこそがあらゆる人を救うのである。
とまあ冗談はさておき、私がダサさの何に惹かれ、何を推しているのかというと、まず一つ目にダサさは保険であるということである。土産物等を手渡すときに「つまらないものですが、、」みたいにあたかも受け手に対して一応の保険をかけている例が有名であるが、正直言ってアレ、ダサいでしょ。
これを逆説的に考えて保険→ダサいから、ダサさ→保険として使うのだ。使用例は、インスタグラムやnoteでの投稿に対しハッシュタグとして「ダサさ」とつけておく。そうすることで他者から見たときに敢えてダサくしていることをアピールできる。ダサさを一種のコンテンツとして迎え入れるのだ。
二つ目にダサさはアートでありアートではないということである。説明が少し難しいが、本来アートの中にダサさがあったはずであるが、ダサさを概念として捉えられるようになったことが個人の一番の進歩ではないか。
例を挙げるとするならば、性格や人の内面、存在がダサいと言われるようになったことがすばらしい。まさかモノだけにとどまらず、あらゆる全てがダサくなるようになったのである。これを革命と言わないで何を革命というのだろうか。
ここまでダサさについて語ってきたが、自分はダサいかダサくないかと問われると、ダサいのだろう。客観、一般的には。それに私は保険をかけるし、よりダサくあろうとする。ダサさはループするのだ。
最後にダサさのループをご紹介しよう。
ダサさ保険 → ダサくみられる → 本当にダサくなる →ダサさ保険∞
ダサさは巡るのだ。本当にダサくなるとは、ダサいことを認知され、ダサさを自ら求めなくなったとき、人は本当のダサさに成るということ。また、ダサくないものを認めないと、自分のダサさも認めてもらえないので、ことあるごとに批判もよろしくない。
以上(最終適当ダサいな)