情動的共感と認知的共感
(2018年6月29日のツイートより)
反共感論、概ね読了。結構簡単にネガティブな情動的共感(いわゆる、そんなひどいことをする人がいるの!?許せん!とか、えっかわいそう…!みたいな感情的な共鳴)に焚きつけられる人は多い。けどそれらは結構盲目的で偏りやすいし、自分も消耗して疲れるし、時として有害にも働くのでは、という話。
情動的共感も大事だけど、認知的共感、つまりなぜその人はそのようなことをしてしまったのだろう?と、感情を挟まず相手の視点で相手を理解し、原因を考えることの大切さが語られてる。その方が無駄な消耗もなく冷静な対処ができ、考えの射程も伸ばせる。他人の感情で消耗しやすい人におすすめ。
私は他人の感情に感電しやすく、例えば迷子の子に声かけておいて、その子供の不安さをビリビリ感じて自分がうるうるしてしまうようなダメさを持ってるんですが、今後は、そうか坊や!オバハンに付いて来い!くらい力強い対処をしてあげられるよう、情動的共感スイッチをOFFにする訓練をしていきたい。
結局、誰かに助けを求められた時に、自分が感情的になってたら、ちゃんと助けてあげられない、という。だから、情動的に共感し過ぎないことは、一見、非人間的で不道徳だけど、道徳的なことを行う上で必要なんだな、とても道徳的なんだな、という。(道徳というより倫理?)
人の心に寄り添うのが目的なら、情動的共感が一番人の心を癒すと思う。でも、じゃあ何が原因で、どう対処していくかとか、そういう抜本的な話をしたいなら、認知的共感で理知的に対処する必要がありますよ、そこを情動的にやろうとすると自分も消耗するし、微視的で射程も狭く偏りますよ(自分が情動的に共感できる人だけを贔屓するようになってしまいますよ)っていう。