15分で読める 森鴎外『普請中』現代口語化版、注釈付き
明治23年に発表された『舞姫』と比較して読まれることがある本作品を気軽に楽しんでもらいたい、というのが目的で現代口語化してみました。あらすじで終わらせず、ぜひ全文で読んで欲しい。
明治43年に発表されたこの小説は口語体で書かれており、あえて現代語にしなくても読めることは読めます。しかし、現代人からすると違和感がある言葉づかいが使われて読みにくいところが多々あります。
現代口語化の方針
(1)現代の日本語としてできるだけ自然な日本語となるように書き換える。意味が分かりにくい場合には、言葉の順序を変えたり、文を分けたり、言葉を足したり、言葉を置き換えたりもする。
(2)「てよだわ言葉」を用いた女性のセリフは、おさえめに書き直す。
(3)原文の時代感は残したいので以下とする
・難しくない古い表記は残す(例 硝子)
・カタカナ語はそのままとする
・古いカタカナ表記もそのままとする
作品の題名の意味について
「普請」とは、土木工事や建築工事のこと。つまり、普請中とは、工事中ということ。
本文
渡辺参事官は、歌舞伎座の前で電車を降りた。
雨上がりの道のところどころに残っている水溜まりを避けながら、木挽町の河岸を逓信省の方へと向かう。「たしか、この辺りの曲がり角に看板があったはずだが」と思いながら歩いた。
人通りはあまりなかった。役所からの帰りらしい洋服の男が五、六人、ガヤガヤ話しながら歩いているのに出会った。それから、半衿のかかった着物を着たお茶屋のねえさんらしき女が、近所に何か用事があるのか、小走りしていくのとすれ違った。まだ幌をかけたままの人力車が一台、あとから駆け抜けていった。
ようやく、わりと小さな看板の横に「精養軒ホテル」と書かれているのを見つけた。
河岸通りに向いた方は板囲いになっていて、横町に向いた寂しい側面に左右から横に上がるようにできている階段がある。階段は先を切った三角形になっていて、その先を切ったところに戸口が二つある。渡辺はどちらから入るのかと迷いながら階段を上がった。見ると、左の方の戸口に入口と書いてある。
靴にだいぶ泥がついていたので丁寧に掃除してから、硝子戸を開けて入った。中は広い廊下のような板敷きで、外にあるのと同じような棕櫚の靴拭いが敷かれ、そばには雑巾が広げて置いてあった。渡辺は「俺のように汚れた靴を履いてくる人が他にもいるのだな」と思いながら、また靴を掃除した。
あたりはひっそりとして人気がない。ただ、少し隔たったところから、騒がしい物音だけが聞こえてくる。大工が音を立てているらしい。外に板囲いがしてあることと思い合わせ、普請中だなと思った。
出迎える者が誰も来ないので、まっすぐ歩いた。突き当たりで、右へ行こうか左に行こうかと考えていると、やっとのことで給仕らしい男がうろついているのに出会った。
「昨日、電話で頼んでおいたのだが」
「はい、お二人さんですね。どうぞ、お二階へ」
右の方にある上り階段を教えてくれた。二人で予約した客とすぐにわかったのは、普請中はほとんど休業同様にしているからだろう。このあたりまで中へ入ると、ますます釘を打つ音や手斧をかける音が聞こえてくる。
階段を上がるあとから給仕がついてきた。どの部屋かと迷って後ろを振り向きながら、渡辺はこう言った。
「だいぶにぎやかな音がするね」
「いえ、五時には職人が帰ってしまいますから、お食事中騒々しいようなことはございません。しばらく、こちらで」
給仕は先へ駆け抜け、東向きの部屋の戸を開けた。入ってみると二人の客を通すには、少し大きすぎるサロンだった。三ヶ所に小さな卓が置いてあり、そのどれもに四つか五つの椅子が取り巻いている。東の右の窓の下にはソファもある。そのそばには、高さ三尺(約90cm)くらいの葡萄に温室で大きな実をならせた鉢植えが置かれていた。
渡辺があちこち見回していると、戸口に立ち止まっていた給仕が「お食事はこちらで」と言って、左側の戸を開けた。これはちょうどよい部屋だ。もう、食卓がきちんと整えられていて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合わせた盛花の籠を真ん中にして、クウウェエルが二つ、向き合わせて置いてある。あと二人くらいは入れそうだが、六人になったら少し窮屈だろうと思われる、ちょうどよい部屋だ。
渡辺はやや満足してサロンへ戻った。給仕は食事の部屋からすぐに厨房の方へ行ったので、それで渡辺はひとりになった。
金槌や手斧の音がばったりやんだ。時計を出して見れば、なるほど五時になっている。約束の時刻まで三十分あると思いながら、小さい卓の上に封を切って出してある箱から葉巻を一本取り、先を切って火をつけた。
不思議なことに、渡辺は人を待っているという気持ちが少しもしなかった。その待っている人が誰であろうと、ほとんど構わないくらいだった。あの花籠の向こうにどんな顔が現れてこようとも、ほとんど構わないくらいだ。渡辺は、なぜこんなに冷淡な気持ちになっていられるのかと自らを疑った。
葉巻の煙をゆるく吹きながら、ソファの角のところの窓を開け、外を眺めた。窓のすぐ下には材木がたくさん立って並べてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水をたたえたカナルを隔てた向こう側に、人家が見える。多分、待合かなにかだろう。往来はほとんど途絶えていて、その家の門に、子を背負った女が一人ぼんやりたたずんでいた。右のはずれの方には幅広く視野をさえぎって、海軍参考館の赤煉瓦がいかめしく立ちはだかっていた。
渡辺は、ソファに腰を掛け、サロンの中を見回した。壁の所々には、偶然ここで落ち合ったかのような掛け物がいくつも掛けてある。梅に鶯とか、浦島の子とか、鷹だとか。そのどれもこれも丈が短く幅が狭いので、高い天井の壁に掛けられていると、尻を端折ったように見える。食卓が整えてある部屋の入口を挟んだ左右には聯のような物が掛けてある。見れば、某大教正の書いた神代文字というものだ。日本は芸術の国ではない。
渡辺は、しばらく何を思うともなく、何を見聞きするともなく、ただ煙草を吸って体の快感を感じていた。
廊下で足音と話し声がした。戸が開き、渡辺の待ち人が来た。麦藁の大きいアンヌマリィ帽に数珠飾りをしたものをかぶっていた。ねずみ色の長い着物式の上衣の胸からは刺繍をした白いバチストが見えている。ジュポンも同じねずみ色。手には、ウォランのついたおもちゃのような蝙蝠傘を持っていた。
渡辺は、無意識に微笑を装ってソファから起きあがり、葉巻を灰皿に投げ入れた。女は、ついてきた給仕が戸口に立ち止まっているのをちょっと見返し、その目を渡辺に移した。ブリュネットの女の褐色の大きな目。昔よく見たことがある目。しかし、そのふちにある指の幅ほどの紫がかった濃い暈は、昔にはなかった。
「長く待たせて」
ドイツ語だ。ぞんざいな言葉とは不釣り合いな傘を左の手に持ちかえて、手袋に包んだ右の手の指先をゆったりと差しのべた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするな、と思いながら丁寧にその指先をつまんだ。そして、給仕にこう言った。
「食事の用意ができたらそう言ってくれ」
給仕は引っ込んだ。
女は傘を無造作にソファの上に投げ、さも疲れたようにソファへ腰を落とした。卓に両肘をつき、黙って渡辺の顔を見つめた。渡辺はその卓のそばへ椅子を引き寄せて座った。しばらくして女が言った。
「たいそう寂しいところね」
「普請中なんだ。さっきまでは恐ろしい音をさせていた」
「そう。なんだか気が落ち着かないような場所。どうせ、いつだって気の落ち着くような身の上ではないけど」
「いったい、いつ、どうして来た?」
「おとつい来て、きのう、あなたにお目にかかったのよ」
「どうして来た?」
「去年の暮れからウラヂオストックにいたの」
「それじゃあ、あのホテルの中にある舞台でやっていたのか?」
「そう」
「まさか、一人じゃないだろ。組合か?」
「組合ではないけど、一人でもない。あなたもご存知の人が一緒」少しためらって「コジンスキィが一緒よ」
「あのポラックか。それなら、お前はコジンスカアだな」
「いやだ。わたしが歌って、コジンスキィが伴奏するだけよ」
「それだけではないだろう」
「そりゃ、二人っきりで旅するからには、まるっきりなしというわけにはいかないわ」
「知れたこと。それで、東京にも連れてきているのか?」
「ええ。一緒に愛宕山に泊まってる」
「よく放して出すな」
「伴奏させるのは歌だけ」女は Begleiten という言葉を使った。ドイツ語で「伴奏」の意味もあれば「同行」の意味もある。「銀座であなたに会ったと教えたら、ぜひ会いたいと言っていたわ」
「まっぴらだ」
「大丈夫。まだお金はたくさんあるから」
「たくさんあったって、使えばなくなる。これからどうする?」
「アメリカへ行く。日本は駄目だってウラジオで聞いて来たから、あてにしてない」
「それがいい。ロシアの次はアメリカが良いだろう。日本はまだそんなに進んでないからな。日本はまだ普請中だ」
「あら。そんなことおっしゃると、日本の紳士がそう言っていたとアメリカで言いふらすわよ。それとも、日本の官吏が言っていたと言いましょうか。あなた、官吏でしょう?」
「うむ。官吏だ」
「お行儀がいいのね」
「恐ろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。今日の晩飯だけが特別なんだ」
「ありがたいわ」
女は、さっきからいくつかボタンをはずしていた手袋を脱ぎ、卓越しに右の手のひらを出した。渡辺は真面目にその手をしっかり握った。手は冷たかった。そしてその冷たい手が離れないまま、暈ができたため倍ほどの大きさになったような目が渡辺の顔にじっと注がれた。
「キスしてあげてもいいのよ」
渡辺はわざとらしく顔をしかめた。
「ここは日本だ」
戸をたたく音もなく戸が開き、給仕が出てきた。
「お食事がよろしゅうございます」
「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺は立ち上がり、女を食卓のある部屋へ案内した。ちょうど電灯がぱっとついた。
女はあたりを見回し、食卓の向こう側に座りながら、「シャンブル・セパレエ」と冗談のような調子で言うと、渡辺がどんな顔をするのかと気になったらしく、背伸びして覗いた。盛花が邪魔だったのだ。
「似ているのは偶然だ」渡辺は平然と答えた。
シェリイを注ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が付きっきり。渡辺は「給仕がにぎやかなのをご覧」と付け加えた。
「あまり気がきかないようね。愛宕山も、やっぱりそう」肘を張るようにして、メロンの肉をはがして食べながら言う。
「愛宕山では邪魔だろう」
「まるで見当違いよ。それはそうとメロンはおいしいわ」
「アメリカに行ってみろ、毎朝きまって食べさせられるぞ」
二人は何の意味もない話をしながら食事をした。とうとう、サラドのついたものが出てきて、杯にはシャンパアニエが注がれた。
女が突然「あなたは少しも妬んでくださらないのね」と言った。かつて二人は、チェントラアルテアアテルでの観劇を終えたあと、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、ちょうどこんなふうに向き合って座り、怒ったり仲直りしたりした。そんな昔のことを、意味のない話をしていながらも、女は思い出さずにはいられなかった。
女は、冗談のように言おうとしたのに思わず真面目な声が出たので、くやしい気持ちになっていた。
渡辺は座ったまま、シャンパニエの杯を盛花より高くあげ、はっきりした声で言った。
“Kosinski soll leben!”
女は、凝り固まったような微笑を顔に浮かべ、黙ってシャンパニエの杯をあげた。その手には、はた目にはわからないほどの震えがあった。
※ ※ ※
まだ八時半ごろ。灯火の海のような銀座通りを横切り、ウェエルに深く顔を包んだ女を乗せた一台の寂しい車が、芝の方へ駆けていった。
原文で読んでみてください
この現代口語化版には、どうしても独自解釈が含まれ、また、分かりやすさのため失なわれた部分があります。なので、作品が本来持つ面白さを、ぜひ原文で楽しんでください。
本作品の原文は著作権切れしており、青空文庫にて無償公開されています。
青空文庫で公開されている『普請中』へのリンクはこちら↓
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card45255.html