10分で読める 森鴎外『牛鍋』現代口語化版、注釈付き

明治43年に発表された短編小説『牛鍋』を読みやすく現代口語化しました。古い文体が苦手、森鴎外苦手と思って避けている人がいたらぜひお試しください。

内容は、三十前後の男が娘と牛鍋を囲んでいる場面を描いたもの。肉をめぐる攻防がユーモラスですが、そこから食に対する生物の本能について話が発展していきます。

現代口語化の方針

基本方針であり本作には該当しないものも含みます。
(1)現代の日本語としてできるだけ自然な日本語となるように書き換える。意味が分かりにくい場合には、言葉の順序を変えたり、文を分けたり、言葉を足したり、言葉を置き換えたりもする。
(2)「てよだわ言葉」を用いた女性のセリフは、おさえめに書き直す。
(3)原文の時代感は残したいので以下とする
・難しくない古い表記は残す
・カタカナ語はそのままとする
・古いカタカナ表記もそのままとする

本文

 なべは、ぐつぐつ煮えている。
 くれないの牛肉が、男のすばやいはしで裏返され、白い方が上になる。
 斜めに薄く切られた、ざくという名のねぎは、白いところが段々と黄色くなり、褐色の汁の中へ沈む。
 箸がすばやい男は、三十前後だろう。晴れ着らしいしるし半纏ばんてんを着ている。そばには折鞄おりかばんが置かれている。
 酒を飲んでは肉を裏返す。肉を裏返しては酒を飲む。
 酒をぐ女がいる。
 男と同い年くらいだろう。くろ繻子じゅす半襟はんえりの掛かったしまの綿入れに、余所よそきの前掛けをしている。
 女の目は絶えず男の顔に注がれている。永遠に渇いているような目をしている。
 目の渇きは口の渇きを忘れさせる。女は酒を飲まない。
 箸がすばやい男は、二、三度裏返した肉のひと切れを口に入れた。
 丈夫な白い歯でうまそうにんだ。
 永遠に渇いた目は、動くあごに注がれている。
 しかし、この顎に注がれている目は、この二つだけではない。もう二つの目がある。
 もう二つの目のぬしは七つか八つくらいの娘だ。無理に上げたようなお煙草たばこぼんに、小さなはなかんざししてある。

【お煙草盆】ここでは髪型の名称。幼い女の子がした。
(Wikipediaの「お煙草盆」の項目→リンク)

 白い手拭てぬぐいを畳んでひざの上に置き、割り箸を割って、手に持って待っている。男が肉を三切れ四切れ食った頃に、娘は箸を持った手を伸ばし、ひと切れの肉を挟もうとした。男に遠慮がないのではないが、「それでは」と言って男に気兼ねする様子はない。
「待ちねぇ。そりゃあ、まだ煮えていねぇ」
 娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めて待つ。
 永遠に渇いた目には、娘の箸がむなしく進んでむなしく退いたのを見るほどの余裕がない。
 しばらくすると、男の箸はひと切れの肉を自分の口に運んだ。それは、さっき娘が箸で挟もうとした肉だった。
 娘の目は、また男の顔に注がれた。その目の中にはうらみも怒りもない。ただ驚きだけがある。
 永遠に渇いた目には、四本の箸の悲しい競争を見るほどの余裕がなかった。
 女は最初、自分の箸を割り、それで杯洗はいせんの中の猪口ちょこを挟んで男に渡した。そのあと箸は膳の縁に寄せたままである。永遠に渇いた目には、また、この箸をかえりみるほどの余裕がない。

【杯洗】酒席で杯を洗うために使う水を入れた容器。1つの杯で酌み交わすときに使われた。

 娘は驚きの目をいつまでも男の顔に注いでいたが、食べろとは言ってもらえない。もう良い頃だと思って箸を出すと、そのたびに「そりゃあ、煮えていねぇ」を繰り返される。
 驚きの目には怨みも怒りもない。しかし卵から出たばかりのひなに穀物をついばませ、母胎ぼたいを離れたばかりの赤ん坊を何にでも吸い付かせる生命の本能は、驚きの目のぬしにも働く。娘は箸を鍋から引かなくなった。
 男がすばやい箸で肉のひと切れを口に運ぶすきに、娘の箸は突然手近な肉のひと切れを挟み、口に入れた。もう、どの肉も良く煮えていた。
 少し煮え過ぎているくらいだ。
 男は鋭く切れた二重ふたえまぶたの目で、死んだ友達の一人娘の顔をちょいと見た。しかりはしない。
 ただ、それからは男のすばやい箸が、より一層すばやくなる。代わりの生肉を鍋に運ぶ。運んでは裏返す。裏返しては食う。
 しかし、娘も黙って箸を動かす。驚きの目は、ある目的に向かって動く活動の目となり、しばらく鍋を離れない。
 大きな肉の切れが得られなくても、小さな切れは得られる。良く煮えたのが得られなくても、生煮えなのは得られる。肉が得られなくても、葱は得られる。
 浅草公園に何とかという、動物をいろいろ見せるところがある。有名な狒々ひひのいる近辺に、母と子の猿を一緒に入れたおりがあり、その前には輪切りにした薩摩芋さつまいもが置いてある。見物人がその芋を竿の先に突き刺して檻の格子の前に出すと、猿の母と子の間で悲しい争奪戦が始まる。芋が来れば、母の乳房をくわえていた子猿は、乳房を放して、珍らしい芋の方を取ろうとする。母猿もその芋を取ろうとする。子猿が母のわきくぐり、またを潜り、背に乗り、頭に乗って取ろうとしても、芋はたいてい母猿の手に落ちる。それでも四つに一つ、五つに一つは子猿の口にも入る。
 母猿は争いはする。しかし、芋がたまに子猿の口に入っても子猿をいじめはしない。本能は思うほど醜悪ではない。
 箸がすばやい本能の人は娘の親ではない。親ではないのに、たまに娘が箸の運びに成功しても叱りはしない。
 人は猿よりも進化している。
 四本の箸が、すばやくなった男の手と、すばやくなろうとしている娘の手に使われていたが、とうとう二本の箸は動かなくなってしまった。
 永遠に渇いた目は、依然として男の顔に注がれている。世に苦味走ったというたちの男の顔に注がれている。
 一の本能は他の本能を犠牲にする。
 こんな事は獣でもあるだろう。しかし、獣よりは人に多いようだ。
 人は猿より進化している。

原文情報

この現代口語化版には、どうしても独自解釈が含まれ、また、分かりやすさのため失なわれた部分があります。作品が本来持つ面白さは、原文にてお楽しみください。
本作品の原文は著作権切れしており、青空文庫にて無償公開されています。
青空文庫で公開されている本作品へのリンクはこちら↓
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card3615.html

参考までの考察 「人は猿より進化している」の2度目

1度目の「人は猿より進化している」は、話の流れからいって、自分の子供ではないのに肉をとられても叱らない男を指しているのは明らかです。しかし、二度目については何を指しているのでしょうか?強調のために2度言ったというのがまず思いつきます。
それだけでなく、もう一人の人物である女のことが含まれているのではないかと思います。女は、その場で飲み食いしておらず食の本能を犠牲にしています。