[日々鑑賞した映画の感想を書く]『シン・ウルトラマン』(2022 樋口真嗣監督)(2022/6/5記)
公開からだいぶ日がたってしまいましたが、実は公開初日に見てました。その時の感想は以下のようなもの。Filmarksに掲載済です。
結局このあと再鑑賞していないので「加筆」もできないでいるわけですが、そのぶんいろんな人たちの論考を読んで楽しんでます。なかでもちょっと興味深かったのが以下の文。
樋口監督は庵野秀明にとって盟友と言える存在で、だからこそ樋口監督に『シン・ウルトラマン』の演出を任せたわけですが、でも庵野さんは自分が脚本に込めたテーマやイメージを樋口さんがくみ取ってくれなかったと不満を持っていると。でも脚本家って誰でもできあがった作品に対しては大なり小なり不満があるようで、要は監督が別の人である限り、脚本をどう映像化するかはその人の解釈に委ねることになるし、その結果「解釈の違い」が出るのは仕方ないと思うんです。
今、「博打打ち・総長賭博」「仁義なき戦い」「二百三高地」などで知られる脚本家・笠原和夫が自作を振り返る「昭和の劇」という本を読み返してるんですが、そこでも出来上がった作品や監督に対する不平不満が非常に多い。「脚本にはこういう意図を込めたのに、監督は全然それをくみ取ってくれなかった」とかね。笠原さんに言わせれば、自分の脚本をある程度納得いくように映像化してくれた(正確に言うと、自分の脚本の持つある種の「重さ」に向き合ってくれた)監督は深作欣二(「仁義なき戦い」など)と山下耕作(「博打打ち・総長賭博」など)しかいなかったようです。でもその深作が演出した「仁義なき戦い」でさえ、笠原は最初に試写で見てあまりの酷さに怒り狂ったというから(後に劇場で見返して考えを改めたらしいが)、どのみち脚本家は監督に不満を持つものなんですね。むしろその「解釈の違い」こそが名作を生む力になることもある。
「あしたのジョー」の連載時、力石が矢吹ジョーよりはるかに大柄の大男に描かれているのを見て、当初から力石をジョーのライヴァルとして想定していた原作の梶原一騎が頭を抱えたという有名なエピソードがあるけど、だからこそ力石の減量苦による死という壮絶なエピソードが生まれたんですよね。
たぶん職業作詞家の人なんかも同じような不満を持つことが多いんじゃないかな。口には出さなくても。でも多様な解釈があるからこそ作品に膨らみも出るわけで。作詞家の意図をすべてくみ取った作品だから面白いとも限らないし、全然違ったものであっても傑作・名曲は多い。ポップ・ミュージックの世界ではビートルズ以降「自作自演」が一般化しましたが、作詞家・作曲家が歌手とは別の「分業システム」も捨てがたいのです。