追悼:デイヴ・グリーンフィールド
5月3日、ザ・ストラングラーズのキーボード奏者、デイヴ・グリーンフィールドが亡くなりました。享年71歳。
かねてから心臓病で入院していて、コロナ・ウィルスに感染して亡くなったそうです。病院内感染ってことなんでしょうか。
デイヴは1975年にストラングラーズに参加してから45年、ストラングラーズ一筋で、それ以外にはソロ活動はおろか他アーティストへの客演もほとんどやっていません。つまりデイヴ=ストラングラーズと言っても過言ではない。
初期ストラングラーズのイメージは、デイヴのヘヴィで攻撃的でサイケデリックなオルガン・プレイによるところが大きいと思います。ジャン・ジャック・バーネルのベース・プレイによって、ストラングラーズ独特の痙攣するようなビート感が作られていましたが、それが音楽としてまとまって聞こえるのは、ジェット・ブラックのきわめてオーソドックスなドラム・プレイであり、リズムに徹したヒュー・コーンウェルのギター・プレイによるところが大きいと言えます。そしてサウンド全体の味付けとアクセントを、デイヴのキーボードが担っていたわけです。誰一人が欠けても成り立たないのが、当時のストラングラーズ・サウンドでした。
なかでもファースト・アルバム『Rattus Norvegicus』(1977年)に入っていたこの曲を初めて聴いた時の衝撃は忘れがたいものでした。今聞いても、当時の興奮と高揚感が伝わってきます。
ソロになってからのヒュー・コーンウェルが同じ曲をライヴなどで演奏してますが、オルガンがないと曲の雰囲気がずいぶん違いますね。
そしてデイヴのキーボード・プレイと言えばこの曲も忘れられません。もちろんディオンヌ・ワーウィック(バート・バカラック)のカバーですが、ストラングラーズ版はたぶんドアーズの「ハートに灯をつけて」を意識していて、前半で長いオルガン・ソロ、後半でギター・ソロという構成も同じ。デイヴのレイ・マンザレクばりの長いオルガン・ソロが圧巻です。
ドアーズ・ヴァージョン(「Light My Fire」)はこちら。
先の「Goodbye Toulouse」を初めて聴いた時に、直感的にドアーズの影響を感じたんですが、それは英国のリスナーも同じだったようで、デイヴも当時ドアーズ/レイ・マンザレクとの類似点をだいぶ指摘されたようです。デイヴは「そのころはまだドアーズを聴いたことがなかった」と言っていたらしいですが、当時あれほど人気のあったドアーズをデイヴの歳で知らなかったなんてことがあるんでしょうか。
「Walk on By」の原曲のディオンヌ・ワーウィック版はこれ。
一方、ソングライターとしてのデイヴです。3作目の『Black and White』(1978年)以降はソングライター・クレジットが「The Stranglers」名義に統一されてしまったので、それ以降のデイヴの作曲家としての貢献度合いはよくわからないんですが、それ以前だと2作目『No More Heroes』(1977年)に入っているこれは、デイヴの作曲で、リード・ヴォーカルもデイヴ。曲もヴォーカルもかなりアクが強いですが、アルバムの中でも印象深い曲ですね。確か初来日公演(1979年)でもやっていて、サビの"Then You're a Dead Ringer"というコーラスを一緒に歌ったような記憶があります。
2007年、元気だったころのデイヴが歌う「Dead Ringer」です。ヒュー・コーンウェルは脱退していて、いません。
それから、1981年のヒット曲「Golden Brown」も、デイヴが大部分を作ったと伝えられています。作詞とヴォーカルはヒュー。
さてストラングラーズといえば、個人的に圧倒的の印象深いのは1979年2月におこなわれた初来日公演です。我々日本人が「パンク」というものに、その硝煙くすぶる現場に初めて出くわした稀有な体験でした。あの場にいたことが、私のその後の人生に決定的な影響を及ぼしたと言って過言ではありません。まさにあれを境にすべてが変わってしまったのです。私だけでなく、多くの人にとっても同様だと思います。当時のことを『Black and White』の再発盤ライナー(2006年)に書いたので、一部再録します。
そして本作が多くの日本のファンに永遠に消えない傷跡を残しているのは、本作発表後の78年2月に来日公演がおこなわれたからである。それは単にストラングラーズの初来日というだけではなかった。彼らはこの極東の島国の地を踏んだ、初めてのパンク・バンドだった。彼らによってわれわれはパンクというものの本質を知ることができた。それは見た、いや体験した者の人生をも変えてしまうほどの衝撃だったのである。
東京・後楽園ホールでおこなわれた3日間のコンサートのうち、最初の2日がぼくの体験したストラングラーズである。その初日。
いまのようにスタンディングのライヴ会場などなかった。スクエアな椅子席のライヴ、うんざりするほど大勢で立ちはだかるダークスーツのヤクザまがいのセキュリティ。開演予定を1時間近くも遅れてライヴは始まったが、開始早々いきなりジャン・ジャックがベースを放り投げ客席に飛び降り、最前列ステージ下にいたカメラマンに殴りかかる。それを見たヒューもその中に入っていく。ジェットとデイヴは何事もないかのように平然と演奏し続けている。これは後に雑誌のライヴリポートで見て初めて知ったことで、その場では何が起こっているのかよくわからなかった。当然のことながら客席は騒然となり、場内は総立ちとなって、そのままストラングラーズの演奏はすさまじいエネルギーとスピードでもって突っ走っていった。ぼくたちはセキュリティを押しのけ、ステージ下に突進し、夢中で暴れた。横で奇声をあげながら長い手足を振り回していた仲間が、セキュリティを勢いあまって殴りつけてもみ合いになり、終演後、誰もいなくなった会場で言い合いになって、長い時間にらみ合ったことを、ぼくはつい昨日のことのように思い出す。
正直に言ってしまえば、あの日を境にぼくの人生は変わってしまったのである。それまで聴いていた、いかなるロックからも得られなかった極限のエキサイトメントと凶暴なる衝動、そして勇気とチカラ。その前に初めて立ちふさがった<敵>の存在。
(中略)
ストラングラーズたちが、パンク・ムーヴメントがもたらしたもの、挑発し、煽り、壊し、再生し、変えていったものは数多くあった。東京公演最終日、ストラングラーズは「Something Better Change」を5回続けて演奏した。それでも何も言わず反応もせずただ客席にへたり込むだけの観客に「お前は家に帰ってテレビでも見てろ!」と毒づき(クラッシュ「London's Burning」の歌詞を思い起こされたい)、実際に帰らせてしまったというエピソードもまた、彼らが求め、変えようとしたひとつの例である。ただのポップ・バンドとしてではなく、一個のロックンロール・バンドとして観客との真摯なコミュニケイトをはかろうとする姿勢。西欧からの一方的な文化侵略ではなく、ヨーロッパ人としての問題意識をもって、日本の問題は何なのかと問いかけたのである。その意味でストラングラーズの来日とはただの興行ではなく、ひとつの異文化の到来であり、異文明との衝突だった。
ともあれデイヴ・グリーンフィールドはそんなストラングラーズに絶対欠かせぬピースでした。ありがとうございました。安らかにお眠りください。あなたのことは忘れない。
私がライナーを書いたザ・ストラングラーズの初期3作の紙ジャケ再発盤。機会があればぜひご一読を。