[過去原稿アーカイヴ]Vol.20 JOJO広重インタビュー:最初期非常階段を語る
非常階段のJOJO広重のインタビューである。2013年6月にテイチク・レコードから発売されたボックス・セット『極悪の教典・完全盤』のライナーノーツ用におこなわれたものだ。非常階段の最初期音源を集めたコンピレーションだが、品切れになって久しく、今のところ再プレスの予定もない。せめてインタビューだけでも再公開できないかと広重氏に打診したところ快諾いただいたので、当時の原文のまま掲載する。非常階段結成の経緯や、最初期の活動ぶり、その音楽性がいかに確立されていったかを詳細に語っているが、同時に日本にノイズ・ミュージックがいかに生まれ根付いていったかという、現場からの貴重な証言でもある。長いインタビューだがぜひご一読を。
JOJO広重インタビュー
あなたが今手にしている非常階段のボックス・セット『極悪の教典・完全盤』は、1983年にリリースされた同名のカセットテープ10本組ボックス・セットに、これまで未発表だった<プレ非常階段>の音源を加え、CD化したものだ。ファースト・アルバム『蔵六の奇病』は、ここに収められたライヴ音源から抜粋・編集したものであり、いわば本作は『蔵六の奇病・完全版』として聞くことができる。
初期音源の集大成とも言える本作はいわば、非常階段流のノイズ・ミュージックがいかに成立したかというドキュメントである。まだ前衛ジャズや実験音楽の尻尾を引きずっているように思える最初期から、贅肉を削ぎ落とし、プリミティヴな初期衝動そのもののような「純粋ノイズ音響」に昇華していく過程は、音楽とは一体なにか、表現するとはどういうことなのかを改めて考えさせてくれる。できれば非常階段のバイオグラフィ本『非常階段 A STORY OF THE KING OF NOISE』(K&Bパブリッシャーズ)と併せてお読みいただきたい。
活動に一区切りという気分だった
ーーそもそも30年前にオリジナルのカセット・ボックスを出された経緯はどんなものだったんですか。
「非常階段のメンバーは全員学生だったこともあって、83年ぐらいに卒業だ就職だってことで(広重は82年に卒業し、東京に移住していた)、活動が一旦停止みたいな形になるんですよね。それで(一旦停止前の)最後の最後ってことで、スター階段のライヴを京大西部講堂でやったんですけど(1983年9月17日)、非常階段は一旦終了したような気持ちでいたんですね、みんな。みんな卒業してバラバラになっちゃうし、ライヴもできないし・・・という雰囲気ができてた。だったら、一区切りとして(それまでの音源を)まとめて出しちゃおうかというのがひとつ。あと、スロッビング・グリッスルが当時24本組のカセット(『24 Hours of Throbbing Gristle』1980年。2003年にCD化されたが既に廃盤)を出したんですけど、それの真似してボックスで出したいなと(笑)」
ーーじゃあ非常階段としての活動が一区切りという気分で出されたと。
「そうですね」
ーータイトルは当然EL&P・・・
「もちろんそうです(笑)」(エマーソン、レイク&パーマーの「Karn Evil 9」(当時の邦題「悪の教典#9」)は、1973年発表のアルバム『Brain Salad Surgery(恐怖の頭脳改革)』に収録)」
--EL&Pが「悪の教典」なら俺達は「極悪の教典」だと(笑)
「もう、それだけです(笑)」
ーー内容についてですが、非常階段になる前(<プレ非常階段>)と、なった後の初期音源が、今回まとめられているわけですね。
「そうですね。頭土奈生樹君とデュオでやった時の音源は入っていませんけど、この時期の音源はほぼ収録されてますね」
ーーこの時期の非常階段は、広重さんにとって、どういう位置づけですか。
「一番過激と言われてた時期の非常階段ですね、初期の。人数がどっと増えて、僕自身も収拾がつかなくなってきて。パフォーマンスみたいなことをZUKE君たちが始めて、僕らもそれに乗っかって。その流れでライヴ活動をずっとやってきて、お客さんもブッキングする側も、そういうパフォーマンスを期待するようになってきたんです。最初はこちらが発してやってたんだけど、だんだんお客さんの方が求めるようになってきた。それでなんとなくこちらの方はしらけてきたんですね。それでもまあ、その流れでやれるところまでやった、という感じですね」
ーーメンバーの卒業や就職が活動停止のきっかけになったということですが、非常階段の活動自体に行き詰まりを感じていたということはあったんですか。
「やれることはやったという気分はありましたね。その頃すでに別の仕事(音楽ビデオの輸入販売)も始めてたので、自分の中では一段落ついた感はありました。口に出して音楽活動をやめるとかやめたいとか言ってないですけど、気持ちとしてはほぼやめてたに近いですね。その最後のお祭りみたいな感じでスター階段のライヴがあって。その翌年の84年に林直人君とアルケミー・レコードをスタートする時に、隠し玉みたいな感じで、非常階段をもう一回やろうという話になる前までは、何もしてないですから。83年の頭から84年の末までは、確か1本しかライヴやってないですね。実質的に解散してたような時期です」
ーー当時は将来的にどうしようと考えてたんですか。
「なんも考えてないですね(苦笑)」
ーーその音楽ビデオの会社が順調だったら・・・。
「そのまま音楽やめてたかもしれないですね。僕らは友達関係、人間関係の中で続けてたんで。たとえば林直人君との繋がりで、アンバランス・レコードからアルケミー・レコードになったように、そこでの付き合いの中でやってましたからね。ほかのメンバーは全員やめて、僕と美川(俊治)さんだけの時代でしたけど、美川さんがどういうつもりだったかはわからない」
ーーその時期の関西のシーンそのものも・・・。
「一段落みたいな時期でしたね。このあとでハードコア・パンクとか出てくるんですけど、その直前の時期。東京もそんな感じだったでしょ。ハードコアの連中が出てきたけど彼らがライヴ・ハウスでできなくなって。78年ぐらいにパンクが出てきてぐーっと盛り上がった時期を過ぎて、全体的に音楽シーン自体が沈滞してた感はありますね。僕らの場合は学生から就職というタイミングがちょうど一致してたので、なんとなく納得がいってたんですよね。マーケット自体がそんな感じだった」
ーー卒業して起業されたのも、そういった転換期、節目の時期であることを感じられていたからですか。
「レーベルをやろうとかバンドで食っていこうとか考えてなかったですからね。食えるわけがない、と思ってたし」
ーー当時の反響はいかがでしたか。
「(笑)1万円ですからねえ。当時にしてみれば超高額なわけで。それで手作りのコピーのジャケットをくっつけただけのカセットですからね。買った人はショックだったんじゃないですか(笑)」
ーー1万円も出したんだから、どんなに豪華なものが届くかと思ったら・・(笑)。
「ええーっ、これかあ、みたいな(笑)。その後、あれ買いましたって人に何人か会いましたけどね。あの時あれが送られてきてびっくりしましたよ、って言われましたよ(笑)。ごめんね、って(笑)」
(テイチクの担当者)「今回は大丈夫ですかね?」
「今回は大丈夫・・・やと思うけど(笑)」
まだ「普通のロック」への執着が残っていた
ーーでは、中身の音楽についてお聞きします。まずDISC 1〜2の<スタジオワークス>の音源ですが、クレジットの記載がないんですが、録音はいつごろなんでしょうか。
「80年から81年ぐらいだと思いますね」
ーー当時はスタジオでもやってたんですね。
「やってたんですね、最初のうちは。週一ぐらいでスタジオに入ってたんです」
ーーそれはバンドとしての技術向上を目指しての練習という意味合いですか。
「一応、楽曲も作ろうとしてたんですよ。でもできなかったんですね。楽器ができるのが僕とドラム(岡俊行)しかいなかったんで。だからこの1曲めとか2曲めあたりは、曲っぽい感じでしょ。ドラムのビートがあったり。ライヴの1曲めにやったりしたんですけどね。80年6月6日新宿のACBでの<天国注射の夜>の時とか、81年1月4日の<スタジオあひる>の時とかは、この曲をベーシックトラックにしてやってましたね」
ーーそもそもどんな曲を作ろうとしてたんですか。
「僕の頭の中では、ホークウインドみたいなのがあったんですけど。全然そんなものにはならなかった(苦笑)。当時ホークウインドとかジャックスが好きだったので、そういうものを目指そうとは言ってた気がしますけど、1回めにスタジオ入った時に、これは無理だなと思ったんですね。みんな楽器なんてできないから、好き勝手に触って音出してるだけだし。それで諦めた(笑)。ただ、漫然とセッションをやってても面白くないので、一応キーになるような曲は1、2曲作って。それがこのボックスの1、2曲めだと思います」
ーー確かにお聞きすると、最初のころは普通のバンドっぽい感じのものをやろうとしてますね。
「ありますね」
ーー広重さんにとって非常階段は<完全即興>を旨とするわけですが、それは最初からではなかったと。
「一番最初に頭土君とやった時は即興でしたけどね。でもこのユニットを組んだ時は、そこまでこだわってはいなかったんです。もういっぺん何か別のことをやろうと。バンド名も一旦、<非常階段>から<腐食のマリィ>という名に変わってるんですね。一番最初のライヴ(80年6月1日クルセード)はその名前でやってる。で東京に行って工藤冬里君のブッキングで<天国注射の夜>に出た時に、工藤さんが名前を非常階段と間違えてしまって。美川君は気にしてたけど、僕は、もういいやって。バンド名なんてどうでもいいと思ってたから。もうその時はホークウインドみたいな曲をやる腐食のマリィっていうのは完全に無理とわかってたんで。ならバンド名が腐食のマリィだろうが非常階段だろうがどっちでもいい。だからその時の録音が『終末処理場』のLPに入ったときは、バンド名が非常階段で、曲名が腐食のマリィになったんですよ」
ーー<螺旋階段>はどういうバンドだったんですか。
「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・タイプのロック・バンドで、ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムス、キーボードという編成で、ギターが頭土君、僕はキーボードでしたね。今回入ってる<プレ非常階段>でドラムを叩いてるIDIOT(高山謙一)は、螺旋階段のヴォーカルだったんですね。僕は頭土君とふたりでやりたかったんだけど、IDIOTが、ふたりとも螺旋階段のメンバーなのに、自分をのけものにして何かをよからぬことを企ててるんじゃないかと心配して(笑)、セッションしてるスタジオにやってきたんですね。それで仕方ないんで3人でやったのが、この音源です」
ーーそれでIDIOTさんが「これは螺旋階段やなくて非常階段やな」と言ったのが、非常階段と名乗るきっかけですね。
「そうです。つまり<プレ非常階段>ですね」
ーー<プレ非常階段>も、初期スタジオセッションも、言ってみれば、普通のロック・バンド演奏に近い。
「そうですね。この時は僕もベースやってるんですよ」
ーーということは、この時はまだ「普通のロック」への執着が残っていたと。
「うん、そうですね。でも無理だった」
ーーそこでメンバーを経験者に代えて・・・という発想はなかったんですか。
「(笑)それは全然なかったですねえ」
ーー自分のコンセプトを実現してくれそうなメンバーとやろうとは・・。
「まったく思わなかったですね」
ーーそこはやはり、人間関係重視と。
「そうですね。集めちゃったから、そう簡単にクビにするわけにもいかないし、っていう。そういう考えでしょうね」
ーー逆に、このメンバーでできることは何かと考えたら、ぐしゃぐしゃの即興しかないだろうと。
「そうそう。ま、それも悪くないなと」
ーーただ「完全即興」といっても、非常階段のほかのメンバーは美川さん以外未経験者揃いだったわけですよね。そこで広重さんからなんらかのアドバイスやディレクションはなかったんですか。
「特にないですね。即興に関しては<第五列>というユニットがあって、そこで78年から79年ぐらいに即興演奏をさんざんやってるんです。だから個人的に即興に対する抵抗とかやりにくさはなかった。で、第五列をやってたゲソ君(藤本和男)の下宿に非常階段のメンバーが毎日のように集まってたんですね。ご飯食べたり麻雀やったり悩みを話したり。そこと即興のワークショップをやってる<第五列>はほとんど同じところにあるわけですから。メンバーみんな即興演奏に関しては普段から接してたんですよね。美川さんはああいう人なんで、昔も今も少しも変わってないし。完全にノイズの人ですから」
ーーピーピーガーガーと。
「(笑)だから最初からポジションが変わらない。僕らは即興好き変な音楽好きの仲間たちって感じだったから。だから特に違和感はなかったですね」
ーーじゃあ音楽的なことというよりは、お互いの人間性だったりノリだったりフィーリングをガイドにして、確認しながらやってたと。
「そうですね」
ーー特に最初のころはフリー・ジャズの影響が大きいようですね。
「そうですね。」
ーーちゃんとフレーズを吹いてるのがサックスぐらいなんで。
「そうですね。非常階段の核になるメンバーというと、僕とZUKE君と岡(俊行)君がいるんですけど、上(幸一郎)さんは岡君の同級生だか先輩だかで。サックスが吹けて変なことをやるのが好きってことで、岡君が引っ張ってきたんです」
ーー実際に演奏にあたっては、広重さんの指示があったわけですか。
「・・・どうだろう。指示したことはほぼない・・・ただ、次のパートはサックスとドラムだけにしようとか、ここはドラムだけの構成でやろうとか、そういう指示は僕でしたね」
ーー特にこのスタジオセッションの音源を聴くと、各人が影響を受けた音楽とか彼らを形作ってきたものが、わりと加工されないでポンと出てる気がします。だからこそ興味深いというか、こういうルーツがあるとわかる。
「うんうん、そうかもしれませんね」
ーーまた、スタジオでもライヴと同じように絶叫してるのがすごい。
「この頃使ってたスタジオがガラス張りだったんですよ。通路から見えるんですよ。スタジオの人とか他のスタジオでやってる人たちが結構見に来てましたね。何をやってんのやと。前衛ジャズの練習やっとるで、と言われたのを覚えてますね。これで前衛ジャズか、と(笑)。前衛ジャズの人に申し訳ないな、と(笑)」
ーー実際にフリー・ジャズの影響はあったんですか。
「特にサックスの上幸一郎さんって人がいて、彼がいることでよりジャズっぽく感じるんでしょうね」
ーーでもこの時代は実際に前衛的、実験的な音楽の尻尾がまだ残ってる感じはありますね。
「そうですね。時代がまだ80年ですからね。当然情報量も圧倒的に少ないですから。聴いたことないけど、そういったものに憧れてる時代ですね」
どこにもない自分だけのオリジナルな音楽を目指す
ーーちょっと話がそれるんですが、広重さんはパンクやニュー・ウエイヴにはほとんど影響を受けたことがない、と公言してますよね。そうはいってもこの時代はパンク/ニュー・ウエイヴの時代で、広重さんのような音楽家が世に出られたのはパンク/ニュー・ウエイヴのムーヴメントがあったから、という一面もあると思います。そのあたりはどうお考えでしたか。
「こういう音楽をやってましたから、ライヴハウスに出られるとかレコードを出せるとか人前に出て演奏できるとか、考えられなかったんですね。ありえなかった。でも自分たちはレコードや音楽は大好きですから、レコード屋さんに自分たちのレコードを並べたい。ほかの音楽と一緒にね。そういう夢はあったんです。でも、それは頭から無理だろう、僕らがやっているのはこんな音楽だからと思ってましたからね。音楽じゃないよって。プライドはあるけど、実際はそんなもので。そういう意味では、最初から(既存の音楽シーンの)枠の外にいるような感覚でしたね。だから非常階段やウルトラビデとかで(ライヴハウス等に)出してもらってる時にも、ぼくらでいいの? というのが常にあって。で、出してもらえるならほかのバンドがやってないようなむちゃくちゃなことをやろうと。そういう意味で影響は受けてないけど、そういう動きがあるから出させてもらえてるんだって認識は、当然ありましたよね」
ーーなるほど。
「ただパンクとかニュー・ウエイヴはかっこ悪いと思ってましたね、当時は。いかにも東京ロッカーズみたいな感じの、革ジャン着てパンクみたいな格好をして、海外のパンクの真似ごとみたいなことしてるんだったら、今まで日本のバンドがストーンズやエアロスミスの真似をしてチャラチャラした格好してライヴをやってるのと変わらないじゃないかと。ファッションが変わっただけで一緒でしょうって。ぼくらはぼくらのオリジナルなものをやりたいから。もっと言うと、僕ら70年代にパンクってものがあると聞いて、パンクっていうのは楽器弾けないやつが次の日になんか知らないけど楽器もってステージに立ってるものだと思い込んでたんですね。で、ピストルズをテレビで初めて見て「なんだ、楽器弾いてるやん」って、こんなのロックやん、って、すごいがっかりして(笑)。で、ラモーンズとかピストルズとかクラッシュとかレコードが出て聴いて「こんなん、ロックやん」ってすごい失望したんですね。『NO NEW YORK』が出てきた時に、初めて「あ、オレが思ってるパンクってこんな感じやねん」と思ったんです。ウルトラビデのスタートと『NO NEW YORK』のリリースってほぼ同時なんですね。あのときにDNAとかマーズとか聴いて、あ、俺達と同じことを考えてるのが世界にもいるんやと知って、すごく嬉しかったのを憶えてる。あとで76年〜77年ぐらいのパンクのオムニバスを聴いて一番ひっかかったのはスーサイドで、あの感覚はすごくわかるけど、あとは全部普通のロックやと。ラモーンズが唯一、シンプルなリフの繰り返しで、ミニマル音楽に近いかなと」
ーーロックだからつまんないというのは、私はなんとなく感覚的にわかるんですけど、今の人には説明しないとわかりづらいかもしれませんね。
「(笑)そうかもしれませんね」
ーーじゃ広重さんのやってることはロックじゃないのかと。
「(笑)どういうんだろうなあ・・・今でこそね、日本のロックなんてみんな普通に聴くけど、70年代って、日本のロックってイコール、カッコ悪いものだったんですよ。アメリカやイギリスのロックの真似をした人がやってるのが日本のロック・シーンだってイメージ。僕らの周りにはコピー・バンドしかいなかったですから。オリジナルなんてなかった。バンドっていったら必ずディープ・パープルだクリームだエアロスミスだののコピーをやるのが日本のバンドだったんですよ。あとはフュージョンみたいなものとか、ブルースとか」
ーー関西はブルース・バンドが多かったってよく聞きます。
「京都とか特に多いですね。最初はみんなキッスだディープ・パープルだって聴いてるけど、そのうち子供が聴くもんだって気づいて、やっぱりクラプトンでしょうとか言い出して、レイドバックとかやりだすようになる。そういうシーンがど真ん中にあって、そういった連中がロック喫茶とかライヴ・ハウスとか根城にしてて、僕らのやっているような音楽を、子供のお遊びとして見下すような視線をすごく感じてたんですね。だからもっともっと異端な方向に行って、プログレだフリー・ジャズだって方に走るわけ。もちろん僕らもロックは大好きなんだけど、そういう先輩たちが僕らを冷たい目で見るのが、すごくイヤだったんです」
ーーそういう連中がロック代表みたいな顔してるから、ロック自体も否定したくなる。
「リザードにしても、バウワウにしても、それは海外のロックの真似に過ぎないじゃないかと。それはかっこ悪いものだと思ってた。自分にしかできないオリジナルな音楽がきっとあるはずだって思ってましたね」
ーー向こうの真似ごとではないオリジナルな音楽が出てきたのは・・・。
「それはもう、SSとかINUとかアーント・サリーとか出てきた時に、ぼくらは東京ロッカーズに比べても異質なものとして評価されてましたね。僕はウルトラビデのど真ん中にいましたけど、絶対こんなバンドは東京にもニューヨークにもロンドンにもないって自信を持ってた」
ーーほかとは違うもの、自分たちにしかできないものをやりぬいてみたいと。
「うん。今もそうですね」
ーーホークウインドみたいなバンドをやろうと思っていたけど、メンバーの要因で出来なかった。でもそれが自分なりのオリジリティを確立するうえではよかったのかもしれませんね。
「かもしれないですね」
ーーもしホークウインドみたいなバンドが出来ていたら・・・
「オレたちが馬鹿にしてた海外のプログレのコピー・バンドみたいになってたかもしれないですね。個人の趣味の範囲で終わってたかもしれないですね。最初からずっとオリジナルなものを追求してたかっていうとそうでもなくて、結構ぶれぶれなところもあるんですよね(笑)」
言葉を超えるノイズ
ーーなるほど。あとこのスタジオセッションを聞いて思ったんですが、ライヴで客を前にして興奮するならまだしも、スタジオの中でここまでキレキレの絶叫ができるのがすごいなと。
「わははは(楽しそうに笑う)」
ーーそれとも結構頭の中は冷静だったりするんですか?
「くっくっくっ、それねえ(笑)。僕もこないだ30年ぶりに聞き直して、「この時何を考えてたんやろ」って(笑)思いましたね」
ーー誰に聴かせるわけでもないのに。
「まあ、ある意味クルってたんでしょうね(笑)」
ーーそこで、やはり言葉ではおっつかない衝動や感情が噴出したということですか。
「・・・歌詞はないですもんね」
ーー中学高校のころはずっと歌もの、フォークを聴かれてたんですよね。そこから、佐井好子で歌ものみたいなものは行き着くところまで行ったので、歌を超えるノイズを目指した、というようなことをおっしゃってますが、そのへんの心境を改めて説明していただけますか。言葉にならないノイズ、絶叫に至った過程。
「<第五列>で即興をやってたころからそうなんですけど、自分の心のなかで思ったり感じたりした瞬間に音にできないかって思ったんですよ。即興演奏ってそういうことですよね。楽曲があったり歌詞があったりすると、予定されたものになるわけじゃないですか。森田童子とかすごく好きですけど、悲しいとか淋しいという言葉があったとして、それはもう何度も歌ってるじゃないか、それはおかしいでしょ、と。その何日か何ヶ月あとでも、同じ気持ではないのに、同じ言葉で表現するっていうのはどうなのか。もちろんそういう音楽もあっていいんだけど、僕らが求めてる音楽とちょっと違う。即興演奏ってあらかじめ決めないで、その場その瞬間の気持ちやテンションを具現化して音にしていくもので、形にしたり言葉にするものじゃないだろう。自分の心のなかにある気持ちは確かに言葉にして言えるものかもしれないけど、まんま同じではないだろう。そこはやはり限界があるし、言葉にすることで必ず何らかのフィルターを通ってしまい、そのまんま言葉になることはないんじゃないか。むしろノイズみたいなワケのわからないものが、心とか魂とか感情とかに一番近いんじゃないか。だからそれをそのまま出せたら、ということですね」
ーー森田童子とか佐井好子を聞いて、ある意味で言葉の限界みたいなものを知ったと。
「そうそう。言葉にだって限界はあるなと」
ーー逆に、言葉でしか届かないものがあるとは?
「それに気づくのはずっと先の話なんですよ。その時にはもう、全否定しちゃってるわけですから。こっちの方が正しい、こっちの方が真実だと思い込んじゃってるわけですから。自由ってなんだろうってすごく考えてる時期だったんですよ。非常階段として何月何日に集まってステージに立つってだけで、もう自由じゃないじゃないか。そこで既に予定してるじゃないか。そこで暴れたりワケのわからないことをするってシチュエーションを期待して客が見に来てること自体が、もう自由じゃないじゃないかと。もうずっとそういう話は出てきてたんですね。そうすると楽器を用意したりすること自体が、音楽というフォーマットを選んでること自体が、既に自由じゃないんじゃないか。そうなってくると、もう何も出来なくなるじゃないですか。自分自身の首を締めて苦しむことになる。そこでもがきながらも、こういったことをやりたいという、ギリギリのところでやってたんですね」
ーー何の制約もない完全に自由な状態だと、かえって何もできなくなる。それはよくクリエイターの方は言いますね。何らかの制約があったほうが表現の密度はあがる、と。
「まあそれに気づくのはもうちょっと後なんですけど、その時はそういう考えにがんじがらめになって、悩んでましたね」
ーーそのころレコードを出す、音源を出すってことはどう考えてたんですか。
「レコード大好きですからね。でもそのころは自分でレコードをプレスして出せるってこと自体を知らないですから。ましてメジャーで出してくれることなどありえない。それがアンバランス・レコードから『終末処理場』というレコードを出すことができた。その時の感動みたいなものは忘れないですね。自分たちでお金さえ出せば、レコードを作ることができるんだと」
ーーその一方で。レコードとして出してしまうのは、ある種固定化されて自由を失うってことでもありますよね。
「そうですね。そういうジレンマみたいなものはずっとありましたね。非常階段の『蔵六の奇病』を出す時も、ずいぶんもめたんですよ。いろんなアイディアが出たんです。音楽を一切入れないで出そうとか。全編、ほんとに一個のノイズだけ入れて出そうとか。メンバーが喋ってるところだけを入れようとか。結局、ライヴ音源のダイジェストっていう形になったんですけど、その時も喧々諤々の議論になって。いわゆる商品みたいなものを、ましてライヴのいいところだけを自分たちで編集して出すなんてどうなんだと。ほとんど喧嘩腰でやりあった覚えがありますね」
ーー広重さんは、そこでどういう立場だったんですか。
「僕はやはり形にして出したいという気持ちが強かった。レコードが好きだったから。でも彼らの言ってることもわかるんですよ。そこで結局、ZUKE君とか蝉丸とか辞めていくんですね。じゃあもう僕はいいよ、好きにしてくれていいからって。最後に岡君と美川君と僕が話し合って決めたのかな。だからもし彼らがバンドにいて、彼らのいうことを聞いていたら、今みたいな形ではできなかったと思う。ZUKE君や蝉丸にとってはパフォーマンスの方が重要で、同じことを2度やるのはおかしいと。だから新宿ロフトのパフォーマンス(1981年8月28日)は良かったかもしれないけど、期待してる客の前で同じことをやるのは何の意味もないと言って去っていったんですね」
ーー今だったら、もっと消費の速度は早いかもしれないですね。みんなネットで動画を見てあっという間に共有して。
「きっとその日のうちにあがりますよね」
ーーそこで、同じことをできないと言ったら・・・
「何もできない。まあ時代・・・自分自身も若かったということですよね。真剣は真剣ですよね」
ーーなるほど。そういう葛藤を経て、だんだんだんだん音からいろんなものが削ぎ落とされていって、最後に純粋なノイズだけが残る、その過程がすごくよく描かれてますね、特にこのスタジオセッションでは。
「そうですね。よく表されてますね。最後の頃になると、自分たちのやりたいことははっきり明確になってますね。そういったものの3年間の記録って感じですね」
カオスそのものだったライヴの現場
ーーDISC 3からは怒涛のライヴ音源攻勢が始まるわけですが、これがもう圧倒的にすごいですね。爆音で聞いていると、頭がモウロウとしてきて、自分が何をやっているのかよくわかなくなってくる(笑)。これ年代順に並んでないから、どうせならCD化の際に年代順に並べなおせばいいのにと思ったんですが、この時系列がぐしゃぐしゃになった感じが、カオスでかえっていいのかなと(笑)。
「(笑)たぶん収録時間の関係でずらしたんじゃないかなあ。60分カセットの片面にちょうど入りきるようにとか、そういう感じで」
ーー当時のライヴの長さが30分ぐらいですか。
「そうですね。今でもそうですけどね。1時間以上やることってあまりないですね」
ーー1980年11月3日創造劇場は、初めてパフォーマンスをやった時の録音ですね。
「たこ焼きをばらまいてね。絨毯を汚したので弁償しろと言われたら、変な因縁をつけて(笑)(詳しくは『非常階段 THE STORY OF THE KING OF NOISE』を参照)、最悪ですよね(笑)。しかもそのお店は出来て間がなかったんですよね」
ーー当時、お客は何人ぐらい?
「いや〜〜30人も入れば、いいほうだったんじゃないですかねえ。桃山学院大学の時はね(1982年11月11日)、スターリンとか出た日なんで、かなりいたと思いますけど」
ーー81年1月4日の<スタジオあひる>のライヴは、なぜラインとライヴ録音が両方入ってるんですか。
「これ、個人的に好きな演奏なんですよ。80年の末に『終末処理場』のレコードが出て(12月27日、アンバランス)、その記念ライヴってことで、年明けにライヴをやったんだけど、スタジオワークスでやってた、ドラムが入ってる曲と、サックスと声だけの曲を再現してるんですよ。そういう意味では、スタジオの演奏を再現してみせた、たぶん唯一の例ですね。たぶん面白かったのでライン録音とライヴ録音、両方入れたんじゃないかな。ラインだから録れてる部分と、ライヴだからとれてる部分とあって」
ーーじゃあライヴとして一番面白かったのが、この時。
「そうですね。お客さんの反応も、こういうのを見たのは初めてらしく、とてもビビッドで。ところどころお客さんとのやりとりがあるのが面白いですね。最後にギターが壊れて、続きはレコードで、みたいなことを言ってますけど、それにもどっと笑いがおきて。あれだけひどいことをやってるのに笑いがおきるのは大阪っぽいなあと思いますね」
ーーライヴの時、笑いは常におこってたんですか。
「うーん、東京ではまず、ドン引きですよね。関西の連中は笑ってる感じはあったかもしれないですね。ワケのわからん奴らがワケのわからんことやってる。なんかオモロイなあ、ぐらいの感じはあったかもしれないですね。東京はその点全然違いますね。まじめに受け止めすぎるというか」
ーーやってる側としたら、やはり笑ってほしいわけですか。
「いやあ、どっちでも(笑)」
ーーノイズやってる人って、人をドン引きさせて喜ぶ傾向があるみたいですけどね。人をいやーな気分にさせたい、みたいな。
「ああ、そこらへんは昔から同じで、自分らはこういう風にやるけど、それをどう受け取るかは聞く人の自由。そこでこう聴けみたいに指定することはない」
ーーじゃあ客の反応は気にならない。
「気にならないですねえ。ドン引きならドン引きでいいし、笑ってるなら笑ってるでいいし」
ーーなるほど。
「あと、このスタジオJAMの時(1982年11月24日)が大荒れで。最後にお客さんが血を流して倒れて救急車が来るんですけど。最後に女の子が「タカハシ君、タカハシ君」って絶叫してて」
ーーそういえば聞こえますね。あれ、客の声なんですね。
「タカハシ君、このあとどうなったのか気になりますね(笑)。最後変な気持ちになって終わるという(笑)」
ーー何があったんですか?
「たぶん喧嘩かなにかででどつかれたんだと思います(以下自粛)」
ーーこのころはライヴのたびに、何がアクシデントがおこって。
「うん、いいことも悪いこともありましたね。面白い時もあるし、メンバーやお客さんが血を流したりする時もあったし」
ーー聞く人のことは気にならないとは言っても、やはりお客さんが目の前にいると演奏も違ってきませんか。
「うーん、まあやってる以上はなにかしらあるでしょうね。無意識にウケを狙ったりとか、あるでしょう。もともとパフォーマンス的なことをやりだしたのはZUKE君や岡君で。お客さんがびっくりするようなことをやりたいと。もっと極端な言い方をすると、客が全員帰ってくれれば大成功、みたいな。そういうところを彼らは目指してたみたいで。どういうことをしようって、ロフトに行く前に、話し合ったことがありましたね。バキュームカーを使って、匂いだけをライブハウスに充満させようとか、おしっこを、ただするだけじゃなくて、タンクみたいなのに溜めて噴射することはできないかとか(笑)、アホなことを考えてましたね」
ーー東京でライヴをやるっていうのは特別な・・・
「もちろんもちろん。口では言わないけど、関西のバンドは対東京っていうのをものすごく意識しているわけで。「俺達は東京でやろうが関西でやろうが一緒だ」とか口では言いながら、すごく気にしてて。東京でやる以上は東京のやつらをドン引きさせたい、みんなにいやがらせしたい、みたいな」
ーー慶応の学祭で・・・
「消火器撒き散らしたり」
ーー窓ガラスを片っ端から叩き割ったり。
「当然意識してやってますよね。ところが終わってから、慶応日吉校舎は神奈川であって東京ではないと聞いてものすごいショックを受けたり(爆笑)。アンタ、東京東京いうけど、日吉は神奈川やでって言われて(笑)。ええっ!慶応って東京ちゃうの?ってショックを受けた記憶がありますね(笑)」
音楽を超えるパフォーマンス、パフォーマンスを超えるノイズ
ーーなるほど(笑)。関西のパンクシーンが成立する前、林直人さんが「関西のバンドは東京に比べオリジナリティがない」と問題提起して、それに応えるようにINUやアーント・サリーやSSが出てきたということがあったらしいですが、広重さんとしてはどういう思いだったんですか。
「僕らは完全にオリジナルなものをやってるつもりでしたからね。もはや音楽でもないようなことをやってたから。だからライヴに誘われても、僕らでいいんですかと。そっちはロック・バンドがやるコンサートでしょ、こっちはもしかしたらロックでも、バンドでもないようなことやってるんだけどいいの?って」
ーー音楽という制約さえも取っ払ったところでやっている・・・。
「・・ような意識でいたいと。そういう自覚はありましたね」
ーーでもその音楽以外の部分を膨らませることで、逆にそれを客に期待されるようになって、予定調和になっていって。
「どんどんしらけていって。で、だんだん続けていく意欲がなくなっていくんですね。卒業とか就職とかあって。バンド全体が崩れていって」
ーーその時に、パフォーマンス抜きの純粋音響としての非常階段をやろうという気はなかったんですか。
「そこに帰っていくのは85年・・・ぐらいですかね。83年から2年はほとんど活動してなかったし。音楽以外の仕事が忙しい時って、だいたいバンドのことは何もやってない(笑)。ベースボール・カードが忙しい時もそうでしたね」
ーーとなると広重さんにとって音楽をやる意味というのは。
「あ、今はもう、ある程度音楽中心になってますけど、やっぱり生きていかなきゃいけないから。だからミュージシャンとかアーティストって意識は元からあまりない。いつでもできる。だから、できる時にやる、というスタンスで」
ーーその場の衝動や感情を即興で吐き出すような音楽だと、そういう衝動が起こらない限り・・・
「やる必要がなかったってことでしょうね」
ーーやはり活動が活発な時期っていうのは、そういう衝動が溜まっていく時期だったということですか。
「もともと溢れ出るものがあったんですよ。子供の頃から常に何かやってたから。ただ、何年かに一回、金銭的に裕福だったり、音楽やる必要もないぐらいモチベーションや興味が薄れてる時期ーー83年〜84年とか、2000年〜2001年ぐらいーーがあったんですけどね」
ーーお金が入ってくると・・・
「やる気がなくなる(笑)」
ーーつまり非常階段結成以来30年以上爆音ノイズを放出し続けたといっても、常に全力で動いていたわけではなくて、適度に休憩を入れていた時期もある、と。
「そうそう」
ーーでもこれ以外の音楽はやる気にならなかったってことですよね。それはなぜなんですか。
「(笑)これしかできないから」
若い世代に伝えたいこと
ーーその後、特に90年代のグランジやオルタナ以降に、ノイズの一般化というか、ノイズがロックの手法として定着した感がありますよね。何の変哲もない普通のロック・バンドが、これみよがしにノイズっぽい音を入れて曲を盛り上げる。ああいう風潮はどう思ってたんですか。
「面白くなかったですよね。特に美川さんとかいやがってましたね。ロックの中に効果音として使う手法が、あのころはなんか取り込まれてるような気がして。美味しいとこだけ持っていかれてるようでイヤな感じだったですね。・・・今はね、進んでやってますけど、フフフ(笑)」
ーー初音階段とか・・・(笑)
「まさにそうですよね(爆笑)。もう矛盾だらけですわ(笑)。流行りモノの感覚とはちょっとずれたところでずっとやってきてるんですよ。初音階段も、流行りモノのように見えて、手法としては実は古いんです。でも今の時代なら、これぐらいの感じが楽しんでもらえるのかなと。(沈黙)いい時代になりました」
ーーあ、やはりそう思われますか。昔に比べるとやりやすくなりましたか。
「なりましたよ〜〜。こんな便利な、いい時代が来るとは夢にも思わなかったです」
ーー自分たちがやってきたことが薄められて一般化していくという感覚が・・・
「うーん、それはあまり感じなくて。むしろ初音階段みたいなのをやって、それまで興味なかった人が何人かでもノイズを聴いてくれるようになれば、それでいいんじゃないかという気持ちですね」
ーー「お客さんの反応は気にならない」というスタンスが、どこかで「聴く人が増えてほしい」という気持ちに切り替わってきたということですか。
「うーん・・・・今回のボックスもそうなんですが、アーカイヴ化の作業に入ってきて、<後の世代に伝える>ことを考えるようになったということですね。若い世代に向けてこういうものを残して、彼らが感じるような形で初音階段的なものをやったりして、今の若い人達の何%かでも、ああノイズって面白いなと思ってくれれば、という。そういう人たちが僕らを乗り越えるような、面白いものをやってくれるといいなあと思うんです。年寄りっぽい感覚ですけどね(苦笑)」
ーーそういう感覚になってきたのはいつごろからですか。
「・・・・やっぱりアーカイヴ的な作業をやり始めてからですかね。30周年ボックスを出した2009年ぐらいからですか」
ーーさっき、30年ぶりに聴いたとおっしゃってましたけど、それは否応なく自分の過去と向き合うということで。それもその時の自分の感覚や感情、スキルや実力ががものすごく赤裸々にむき出しになってるものですよね。
「たぶんこの<プレ非常階段>の音源とか、以前だったら出せなかったと思うんですよ、恥ずかしくて。今だから出せるんですね。もともと自分がやってきた過去を隠すのはあまり好きじゃなくて、出してしまった以上、恥ずかしいから出さないでくれっていうのはかっこ悪いと思ってるんで。昔の音源が発掘されるのをいやがる人もいるけど、一回公に出したものを隠したってしょうがない。<プレ非常階段>はスタジオでのセッションで人前でやったわけじゃないから、僕が出さなかったら永遠に陽の目を見ることはないんだけど、それを出してもいいって思えるようになったんですね。ずいぶん子供っぽいことをやってたんだなと、それをわかってくれれば。というか、わかってもらいたい。最初からこんな、<ノイズの権化>みたいなことをやってたわけじゃない、最初はみんなと同じように音楽が好きで好きでっていうところから始めたんだよと。それを若い人に知ってもらえたら」
ーー最近は異ジャンルの音楽家とも積極的に共演されてますが、やはり広めたいという思いからですか。
「それもあるし、思いついたことはなんでもやるし、声をかけられたものはできるだけ受けたいということですね」
シリアスになりすぎない
ーーとりあえず今回のボックスセットで、初期非常階段のアーカイヴ化はほぼ完了、と見ていいわけですか。
「そうですね。目ぼしいのはこれで全部ですね。前の30枚組とあわせて、過去のものに関しては出し尽くした感がありますね」
ーー過去の見直しはここまで、となると、未来の話になるわけですが、新作はどうなんでしょう。
「今、初音階段のアルバムを作ってるんですよ(笑)。あと、BiS階段とか」
ーー非常階段のいいところは、そうして、いい意味で敷居が低いところでしょうね。シリアスになりすぎず、「笑い」がある。
「そうですね。俗っぽいんですね」
ーーお前ら何やってんだよって、笑って突っ込めるところがある。
「エンタテイメントなんですね。あんまりシリアスなのもかっこ悪いと思うんですよね」
ーー非常階段、あるいはノイズ音楽一般について語るとき、ついついシリアスになりがちですけどね。
「もちろんシリアスな部分もあるんですけど、人間てそれだけじゃないでしょう。やっぱり笑いがないと。特に関西エリアでは」
ーーだからこれを聴いて思ったんですけど、最初のころは「アヴァンギャルド」とか「エクスペリメンタル」という権威的なものの尻尾が残ってるんだけど、だんだんそういうのが削ぎ落とされてプリミティヴになっていく過程が面白かったです。
「普通なら逆ですよね(笑)」
ーーロックの一番単純で原始的なところに戻っていく。・・・
「自分の中で必要なものはこれだけだと、気がついていく過程なんでしょうね」
2013年4月24日 小野島 大 Dai Onojima
(インタビューは2013年4月17日東京・渋谷アップリンク・ファクトリーで)
(2022年注:『蔵六の奇病』はボーナス7インチを加えアナログ盤で2023年3月に復刻予定。詳細は下記。
https://p-vine.jp/upcoming/alp7lp-1_2#.Y4RE6-zP3PZ