現実が辛ければ”夢”を見ればいい
西側に来て一番辛かったこと、ああこれだけはロシアのほうが優れていると切実に思ったことがあるの。それはね、才能に対する考え方の違い。西側では才能は個人の持ち物なのよ、ロシアでは皆の宝なのに。だからこちらでは才能ある者を妬み引きずり下ろそうとする人が多すぎる。ロシアでは、才能がある者は、無条件に愛され、みなが支えてくれたのに
(「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」、米原万里)
作家、米原万里は少女期にチェコスロバキアの多国籍的なソビエト学校に通い、ロシア語通訳となってからはベルリンの壁、ソビエト崩壊といった形で共産主義の没落に立ち会った。この時勢的にも地理的にも資本主義と共産主義の境界にあった稀有な環境で、彼女は才能と呼ばれるものが「壁」を隔てた東西で異質な扱いを受けていることを肌で感じたに違いない。
「資本主義が唯一存続可能な政治・経済制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能(M・フィッシャー)」な時代において、才能や個人の資質は金銭と同様に”私有財産”の一種、つまり他人とは断絶された所有物として扱われる。そしてそれがたったひとつ、才能が妬まれ、互いに闘争する世界の条件として必要なものだった。彼女が予見したとおり、資本主義社会では明らかに限られた需要や人気というパイを奪い合う形で才能が闘争し、持たざる者から持てる者へのパラノイア的な羨望が横行することになった。そして映像、音楽、漫画やイラストレーションといった表現分野を問わず、明らかに才能の母数が、送り出される作品の数が多すぎるという事実がそれぞれの需要や存続を圧迫しているという状況が蔓延し、多すぎる競争相手の存在がダンピング(過当競争)を誘発するという形で、ますます創作分野の闘争は苛烈をきわめていった。
フィッシャーが資本主義に絡めとられた文化的抵抗のアイコンとしてたびたび言及するカート・コバーン(ニルヴァーナ)の敗北もまた、この「表現分野における達成が個人的な財産目録に書き記される」というシステムによる犠牲だと考えられる。
カート・コバーンとニルヴァーナほど、この膠着状態(デッドロック)を体現した(またそれと戦った)類例はない。その凄まじい倦怠感と対象なき怒りにおいて、コバーンは、歴史の後に生まれた世代、あらゆる動きが事前に予測され、追跡され、購入され、売却される世代の声となって、彼らの失望と疲労感をあらわすと思われた。自分自身もスペクタクルの延長に過ぎないことを知り、MTVへの批判ほど、MTVの視聴率を上げるものはないということを知り、そんな彼の身振りはすべて予め決定された台本に従うクリシェに過ぎない、という自覚をもつことですら、陳腐なクリシェに過ぎないのだと、コバーンは全て分かっていた。(中略)そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ。
(「資本主義リアリズム」p27、マーク・フィッシャー)
これはフィクションの中でヒーローが、悪戦苦闘のすえ困難を打ち破ったまさにその瞬間に、拍手をしながら悪役が登場し、操られていたと知らされるシーンを想起させる。あらゆる成功が、たとえばそれが闘争そのものや個人主義自体への抗議の成功であってさえ、個人の達成目録に追加されるという状況は、追認という形でそれを闘争や個人主義への貢献として内包する。コバーンが、ニルヴァーナが人気になることによって、彼らは人気になりたかったのだと、資本主義が推奨するシステムに従って闘争し、達成目録を追加したかったのだと再帰的に証明される。資本主義におけるすべての成功は個人的な達成、どこかの誰かの敗北や犠牲によって肉付けされた相対的な勝利の物語として、行為者個人に帰属させられ、何ら体制的な結果や、文化的な進歩をもたらさない。その成功はそれ自体がシステムを賛美するファンタジーとしてパッケージされ、商品として無数の大衆に行き渡り、代替なき制度としての資本主義を再肯定する。
どうやらこの、私有財産という考え方によって厳密に区別された個人像を、資本主義を代替不可能な「最後の制度」たらしめている根源のひとつとして数えなければならないらしい。というのも、成功であれ失敗であれ、それがひとつの個人的な物語として消費物に仕立てられ、他の物語と断絶され、フィクショナルな感傷として甘受されるという環境こそが、民主主義あるいは個人主義的尊重が持っている最大の洗練された点であり欠陥だからだ。
コバーンとは逆の場合、つまり敗者としてシステムの純粋な犠牲になる場合を考えても、辿るのは同じく、それがひとつの個人的な悲劇としてパッケージされ、ポルノ的に消費されるという結末だ。
大量失業は、個人化という条件の下では、個人的運命として人間に負わされる。人間は、もはや社会的に公然とした形でではなく、しかも集団的にでもなく、個々人の人生のある局面において、失業という運命に見舞われる。失業という運命に見舞われた者は、自分一人でその運命に耐え忍ばなくてはならない。
(「リスク社会」ウルリヒ・ベック)
ウルリヒ・ベックは「リスク社会」において、失業がいうなれば「個人的な運命」の物語として甘受されることを示唆している。ベックによれば、個人化が究極のところまで進んだ社会では、豊かさへの追求の過程で発生した不安定なリスクが「(ブルーカラーのような)階級」を通さずに直接的に個人まで転嫁される。総て個人は豊かさへのアクセスが保証されているという代償を甚大なリスクによって支払う。
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