「お金は汚いものだ」という感情
意識の中では認められている願望が無意識の中では否定されているとき、私たちはよく言われるような「言っていることとやっていることが違う」という状態に置かれる。何かを欲しいと言いながら実際にそれが手に入りそうになると全力で拒んだり、現状を変えたいと嘆いていながらその環境に固執したりといったちぐはぐな態度を繰り返す。当人はいたって真面目にその願望を「信じて」おり、周りから見れば明らかな矛盾に気付くことができない。
こういった言葉と行動の間で起こる矛盾は、まさにある種の不合理な指針を意識と無意識の間に分断し、どうにか現実に対応しようとする努力の結果である。
自分では認めているはずの願望が無意識的には禁止されているというダブルバインドの結果として「羨望・嫉妬」という感情がある。嫉妬はまず、他者の所有するところとなっている対象への欲望を憎悪しながら、自らはその欲望を捨てきれずにいるという矛盾に端を発している。嫉妬は、他者やその欲望という鏡に映った自分自身に対する攻撃的な感情だといえる。投影という言葉を使うならば、他者に投影された自らの欲望を「他者を攻撃する」ことを通して罰することで、罪を認めずに罪を償おうとするのが嫉妬の孕んでいる欺瞞である。誰かのしていることを自分ではしたいと思わないとき、誰かの持っているものを自分もほしいと思わないとき、身も蓋もない言い方をすれば、嫉妬が起こるはずはない。
そこで、嫉妬は欲望するわたしと欲望を禁止するわたしの葛藤であると考えることができる。わたしは欲望しているが、それを認めることができないというとき、憎悪や批判といった態度を通じてそれを他者に責任転嫁する必要が出てくるのである。
たとえば私が、楽をして稼いでいる誰かを羨ましく思っているとき、「楽をして稼いでいて羨ましい」とは言わずに、「あんなふうにして稼いだあぶく銭は身につかないだろう」とか、「どうせ裏で悪いことをしているのだろう」と表現する。ところがこの表現によって第三者は、むしろ私が「楽をして稼ぎたい」と考えていることを感じ取ってしまう。私は、他者を通じて同じようにしたいという欲望が喚起されたからこそ、その欲望を否定する理由を作らなければならなかったのであり、批判めいた口ぶりをしなければならなかったのは、欲望する自分の内面を否定しなければならなかったからに他ならない。
親から子に伝えられる言動は、こういった「一方では欲望し、一方では禁止する」という意識内での自己矛盾の原因となり易い。
たとえば、貧困状態にあり、それを憎悪していながら自己正当化を試みる親は、金持ちに対して上のような発言(きっと悪者なのだとか、心が貧しいのだろうといった揶揄)を繰り返して子どもに聞かせてしまう。すると、子どもの心の中には金持ちは悪者であり、金は汚いものであるという印象を通じて、金銭欲に対する禁止感情が植えつけられる。自分は「ああいうふう」にならないようにしよう。子どもにとって金持ちになるということは、まさに悪者になってしまうことである。
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