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問題がないという問題(終)

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あらゆる動物と比較して人間ばかりが、その生に動機や意味づけを必要とし、ただ生きていることを良しとすることができない。この動機や意味づけのことをこれまで、欲望と呼んできた。

欲望を喪失した私たちは、「生きていても意味がない」という観念に苦しめられる。「生には意味がない」とする観念は、一般に虚無主義<ニヒリズム>と解釈される。

しかし、この言葉には注意すべき二重性がある。たとえば、動物は自らの生に意味づけを必要としない。したがって、動物の生には意味がないと結論づけることができる。ところが、動物は自ら「生に意味がない」と苦しむことがない。

動物の「生に意味がない」は人間の言う「意味がない」とは異なっている。それはもっと根本的な無、つまり「生に意味がある必要がない」という絶対的な無を意味している。



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この違いは、【自己否定とは自己愛である】で触れたような言語の相依性になぞらえて考える必要がある。

人間の言う、ニヒリズム的な意味での「生に意味がない」は、生がそもそも意味を必要とすること、そして生に意味づけが「あり得る」ということを前提にしている。たとえば、「全ては無意味である」と言ったとき、「無意味であること」を言葉として存在可能にするべき「意味のあること」は、差異のない「無意味」という画一性に呑まれ、全体として分けられないひとつの状態になってしまう。このために「全ては無意味である」という言明は不可能になる。これは「言語そのものの相互依存性」によって起こる。

したがって、「(私の)生に意味がない」は「生に意味がほしい、生に意味があるべき、あり得る」という意味肯定の観念に対する「相対的な否定」であり、同時に「生には意味があるべきである」という観念の「絶対的な肯定」であると言える。

一方で、犬や猫の「生に意味がない」における「ない」は、生に「意味がありえる」という相対的な肯定の観念という意味上の対極を持っていない(図の上の「無」)。犬や猫は、犬や猫はこのようにあるべきであるとかいった意味づけや、目的意識を持って生きているのでは断じてない。犬や猫は、ただあるがままに犬や猫である。


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