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ケチは強欲より厄介だという話

ネット上で、自粛要請のあおりを受けた飲食店の店主が自殺したというニュースを見かけた。久しぶりに買出しに行くと近所の飲食店もいくつか閉店している。この状況が続けば体力のない個人経営の店から潰れていくので、各地の商店街や駅前に代わりにチェーン店が立ち並んでつまらない光景になるかもしれないと思う。

同時に、アルバイト先がなくなって大学生が学費や生活費の支払いに困窮しているとか、実家に帰省した若者が感染を広めているとかいうニュースも入ってくる。都会で働いて家賃を支払っている若者が、その仕事をなくして困窮しているという状況で「帰省せずに暮らし続けろ」というのは無理があるように思う。

そしてそんな状況でたった10万円を支払うや支払わんや、いつどうやって給付するか、誰に対してするか、などと入り乱れて喧々囂々している光景を見ていると遠い国のできごとのように思える。



ところで悲惨な状況の中で政治家が、特定の業界のクーポンを発行して収束後の消費を促すだとか、大金をかけて質の悪いマスクを郵送するという「非常におおらか」な対応を発表したために、そしてそれが利権がらみを匂わせたために、政治家は強欲だというふうな批判が起こるのだが、僕はこういう態度は強欲ではないというか、強欲であればずっとマシだったように思う。

というのも、金銭というのはただの記号であって、たとえば地球上の土地とか資源の全量に対応しているとか、太陽光のエネルギーに応じて限界量が定められているというものではない。厳密に「利用価値」のあるものではなくとも、たとえばブランドや芸術品に、サービスや娯楽に、有名人やキャラクターの「お布施」に人は金銭を支払うが、この価値は支払う側が勝手に感じているものであって、価値があらかじめ定義されているわけではない。価値はわたしが「払う価値がある」と感じるものに後付けで付加されるに過ぎない。

これは「誰かが損をすれば自分が得をする」わけではない、ということを意味している。僕がもしお金がほしい、と感じたらまわりの人がお金を持っていることが重要になる。なぜならその人たちがお金を持っていて、払う余裕がなければ、それは僕に回ってこないからだ。たとえばユダヤ人が財産の10%を寄付するのは「自分の利益」のためだとも言える。


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