幸福には外観しかない
わたしたちは何かの欠如を感じたさいに、具体的な対象が不足していると考え、その対象を補うことで欠如を埋めようとする。言い換えれば、「わたしは不幸である」と感じた人は、何を獲得すれば、あるいはどのようになれば「幸福」になれるかと考え、その「想定された幸福」に同一化しようとする。
ところが、実際にはこのような過程ではその「欠如」は埋められず、それどころか説明不可能な空虚感はますます増大する。
今回は、このような悪循環が起こる過程について考えてみよう。
△羨望
第一に、わたしたちが「幸福」になろうとして具体的な対象を取るのに際して、既に起こっている問題はその「幸福」を体験しているのは他者だということである。たとえば、上の図のようにわたしが「誰かの暮らしている家」に羨望を覚えたとする。他者がこのように幸福であるように思われるとき、わたしは相対的に自分が不幸であると考え、その羨望の対象に接近することで「幸福」を体験しようと考える。
ところが、このようにして実際に「誰かの暮らしている家」に住み始めたとき、その「幸福」の内部に侵入したわたしは「羨望」を抱いていたものの外観が見えなくなり、「この内部に入れば幸福になれるであろう」という期待は裏切られてしまう。
なぜなら羨望によって想起している「幸福」は、「他者」としてのわたしの目線の中で進行しているだけのものであり、したがってそのような「幸福」に身を置いたとしてもそれを体験するのもわたしではなく他者(わたしを「外から見て」羨望する誰か)になってしまうからである。
ここにあるような「外観しかない幸福」と「自分が体験可能な幸福」の間にある断絶は、幸福が「言葉」であることに起因している。言葉は第一に「伝えるためのもの」、すなわち他者のためのものであり、その言葉によって幸福を得ようとすることは、幸福と幸福証明を取り違える危険を孕んでいる。
ラカンは、精神分析にシニフィアンとシニフィエという言語学上の断絶の概念を導入した。それはたとえば、次のようなものである。
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