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"有用性"は精神病の入り口ではないか

はじめに言っておくと、これから書くことはこの1年ほどを費やしてようやく考えるに至ったあることについて、前提をすっ飛ばして結論だけを書くような内容なので、わけがわからないということがあるかもしれない。同時に、もともと分かっている人からすれば全く意味のない内容かもしれない。いずれにせよ、あまり役に立つ文章ではないことを踏まえて最後まで読んでいただければと思う。

先日、相模原の障害者施設で入所者・職員計45人を刃物で死傷させた被告に死刑が言い渡された。この男は、その障害者施設で「他人のお金と時間を奪う重度障害者は死んだほうが良い」という確信的な意志を持って犯行に及んだという。報道によれば、この優生思想的な考え方は、世の政治家や実業家といった「合理主義的で生産性を重んじるような」著名人の発言を受けて総合的に肉付けされていったものであるらしい。実業家が功利主義的であったり新自由主義的に振舞うのは何も珍しいことではないが、現代の特徴は政治家でさえ「生産性」とか「有用性」のような機械に当てはめて使う概念を人間に適用したり、あるいはそういう人間が社会的リーダーシップを取ることを望まれるという傾向だ。杉田水脈の「LGBTは生産性がない」、柳澤伯夫の「産む機械」発言は記憶に新しいが、こういった大失言は心理学的に言えば、ふとした機会に不幸な偶然が重なって起こるのではなく、本人の受けた影響や経験思考の積み重ねによって生じた哲学が最終的・必然的な結果として正確にはじき出されて露呈する。同様に前述の事件も、異常な人間がたまたま生まれて異常な偶然を起こしたのでなく、これまでに社会に内包され、蓄積してきた矛盾がある種「合理的な」爆発を起こしたと考えるべきだと思う。最後まで彼は「障害者に人権があるのはおかしい」と納得しない様子だったという。





これについて上妻世海さんがとても重要と思われる指摘をしているので引用させていただきたい。

信じられないような犯罪が起こると、僕たちはその犯人を憎悪し、異常で不合理な、レアケースの人間であると矮小化して、死刑によってその異分子が排除されたと安心する。しかし実際にはこのことによってむしろ犯罪のロジカルな根拠、それがどういう経緯で生まれ、そしてどのように防がれるべきかというもっと重要な視点まで洗い流し、うやむやにする。

例の事件についても言えるのは、この犯人は異常で、不合理で、非社会的なのではなく、あまりに正常で、あまりに合理的で、過剰に社会的なのであり、上妻さんが指摘しているのはこの犯罪が示しているのは犯人の社会不適合ではなく社会のダブルバインドそのものだということだ。

現代の異常なまでに窮屈な社会は、とりもなおさず「命は尊い」ということになっている。そして、その命を守るためにどこまでも過大になっていく負担を(介護職のような労働ではなおさら)要求される。しかし、「命は尊いのである」という事実は、額縁に収められた偉人の言葉と同様に、「そうであるという事実」として、つまりルールとかマナーのような感覚を伴わない屁理屈としてしか実在していない。これは、命の尊さを「それが自然に感じられる環境を作ること」ではなく、「命は尊いのだから生きている限りはどこまでも人権を侵害してよい」というふうに利用し、搾取し続けてきた結果であるように思える。感覚を伴わない、形骸化した「命は尊い」という論理は、すぐさま「他人の生命に対して貢献していない生命は役立たずである」という結論に通じる。そして、その「命は尊い」という感覚の慢性的な欠如によって、「役に立たない存在は抹消してよい」という結論が、必然的な出力として導かれたのではないだろうか。



そして、この「命は大事」の矛盾を感じさせてくれる出来事を僕たちは否応なく、頻繁に目にしている。最近、伝染病の流行をきっかけにして「不要不急」のイベント、娯楽や芸術などの文化的活動だとか、嗜好的な飲食といった消費が大幅に制限され、関連する職種が大ダメージを受けている。そしてそういった職種の人たちを救済すべきだという議論に対して、「そもそも娯楽や文化は社会に”必要”ではないのだから、その職業を選んだ自己責任として受け取るべきだ」という意見が平気でまかり通っているのを見かける。

では、「本当に必要」なものとは何だろうか。人間が生きていくのに本当に必要なものといったら、食料くらいのものだ。それも、味とか歯ごたえとか香りがある必要はなくて、要は生命を維持するための栄養素が含まれたペーストのようなものがあり、それをフォアグラの容量で喉に流し込み続けてやればその人間は生きてゆける。娯楽や文化の摂取などもってのかだ。

そのようにして「必要のないもの」を排除していけば、最終的には体中を管に繋がれた、生命を維持しているだけの人間も「生きているのだから尊い」となるだろう。しかし、このフォアグラ状態の人間はもはや「生きていること」を尊いなどとは全く思っていない。そもそも何も楽しみがなく、「生きる理由」がないからだ。そこで、「生きる」こと自体ももう必要ないということが判明する。生命はもともと必要のないものなのである。ここでようやく、不必要なものがなければ生きている意味もないという逆説的な論理が生まれる。生きることはそれ自体として無意味で、だからこそ人権が必要となる。

文化はいうまでもなく、「命の役に立つ」ものではない。しかし、「命の役に立たないもの」への愛着こそが豊かさの根源であり、それを失って「ただ生きる」ようになった生き物は命令されて動く機械と変わらない。植松が言うように「お金と時間」が唯一の重要な尺度で、この世の全てであるなら、お金や時間を費やして代わりに受け取る価値のあるものはこの世にないということになる。それははじめから矛盾している。



僕は個人的に「命は尊い」というのはルールではなく感覚的なものだと思っていて、それはつまり、感じ取れなければ存在していないも同然だということを意味している。もしも自分が生きていて、それだけで嬉しいような主観的な気持ちを持って暮らしているのなら、その喜びは他人にも投影され、その他人の命も尊いのであろうという推測が成り立つ。しかし、命は「何かの役に立てる道具」でしかないと教育されたり、考えたりしている人間は、いつでも他人の役に立ち続けなければならないと考え、徐々に「自分は役立たずなのではないか」という不安に襲われる。自分は役立たずで、哀れである。そうすれば、自分よりもっと「役立たず」な存在は、自分よりももっと哀れで、苦痛にまみれた生を送っているに違いない。そうすれば、その存在を抹消してやったほうが「やさしい」のではないか?

このように、自己を「道具」的に合理化してしまう考えは、色々な説明の手順をすっ飛ばして言えば、虐待の成果である。虐待のないところに、ここまで自己を合理化するロジックは生まれない。虐待を受けた人にとって、命は何か合理的な理由がなければ存在してはならない。したがって、生きることは絶えず理由を作り続けることであり、その理由の尽きたときは死ぬ時なのである。

では、社会のほうが「有用でない人間は存在してはいけない」という方向に向かっていくのはなぜかというと、社会が虐待の影響を反映しているからに他ならない。「有用でない人間は生きていてはいけない」というロジックは、「あなたを無条件で認めている・愛している」と育てられた人間からは決して生まれない。無条件で認められているという安心感は、感覚的なものであって、言葉にして説明することで与えられるものではない。

米原万里は「オリガ・モリソヴナの反語法」の中で、ラーゲリ(旧ソ連時代の収容所)の中で、あらゆる外部との接触を断たれた女たちが、生きる希望を失い、その中で自分たちで演劇や朗読をして文化的な渇望を満たそうとする様を描いている。僕はこのエピソードがお気に入りなのだが、実のところ、これはほとんど実話らしく、そのことが「心臓に毛が生えている理由」というエッセイの中で明かされている。その部分を最後に引用したい。



力の湧き出る根本を絶ち、辛くも残った気力を無残にそぎ落として行ったのは、ラジオ、新聞はおろか肉親との文通にいたるまで外部からの情報を完全に遮断されていたこと、そして何より本と筆記用具の所持を禁じられていたことだった。「それが一番辛かった」とガリーナさんは言う。「家畜みたいだった」と。彼女は逮捕された当時、鉄道大学の学生、技師の卵だった。人文系の人ではない。そういう状態に置かれ続けた女たちが、ある晩、卓抜なる解決法を見いだす。日中の労働で疲労困憊した肉体を固い寝台に横たえる真っ暗なバラックの中で、俳優だった女囚が『オセロ』の舞台を独りで全役をこなしながら再現するのである。一人として寝入る女はいなかった。それからは毎晩、それぞれが記憶の中にあった本を声に出してああだこうだと思い出して補い合いながら楽しむようになる。かつて読んだ詩やエッセイを次々に「読破」していく。
そのようにしてトルストイの「戦争や平和」やメルヴィルの「白鯨」のような大長編をもほとんど字句通りに再現し得たという。

「心臓に毛が生えている理由」米原万里



だから、生きていることと同じように、生きる理由があるということは大事で、その意味で文化は「必要」なのだといえる。必要でないものを奪い、人間らしさを剥奪するということは、その人を殺すのとほとんど同じことなのだ。

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