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悪意を受け取らない人の考え方

愛されて育った人、すなわち精神的に自立している人は他人の悪意を自己自身の問題として受け取らない。自己自身を受け容れている人は、他人に悪意を向けられても、それによって自己の中に責め立て、攻撃すべき部分を見出さない。よく言われるように、精神的に自立している人は、自分の問題と他人の問題を分けて考えられるので、自分の問題について他人を責め立てたり、他人がその人の問題について自分を責め立てても仕方がないことを知っている。そのために、精神的に自立している人は悪意を向けられても悪意を返すということをしたがらない。

他人に悪意を向ける人は、悪意を受け取らない人に悪意を向けたがらない。したがって、精神的に自立した人を悪意は避けて通ると言うことができる。いっぽうで、精神的に不安定な人は、他人の悪意を受け取り、その責任を負う避雷針になってしまう。



既にこれまでに、自己嫌悪に陥りやすい人なぜ自分を責めるのか?ー憂鬱と自己批判において、他者を攻撃する人が自己自身を、自己自身を攻撃する人が他者を批判している場合について説明した。自己の中に否認すべき一面を抱えている人は、他者を攻撃することを通じてその一面を罰しようとする。人が誰かを傷つけようとするとき、まず自分が言われたら傷つくであろう言葉を選ぶ理由はここにある。他者を攻撃することを通して人が罰しようと試みるのは自己自身であり、傷つけようと試みているのはもともと自己自身である。他者への悪意と攻撃は、結局のところ他者を介して自己を攻撃し、罰する行為でしかない。

したがって、理不尽な悪意を他者に向ける人は常に自己を傷つけようと試みていると考えることができる。であれば、悪意を撒き散らす人が悪意を「返してくれない」人にそうしたがらない理由は分かりやすい。悪意を他者に向ける目的がそもそも自罰であるので、悪意を返さない人とは自分を罰するのを手伝ってくれない人なのである。

人が他者に対して過敏な攻撃や批判をするとき、ほとんどの場合はその人ではなく自分について言っている。防衛機制の言う投影とは、自分の中にある負担の大きな感情を他人に預け、そしてその他人を攻撃することで間接的に自己を罰する行為である。攻撃している相手が誰であれ、そして何についてであれ、結局のところ、批判しているのは自分であり、語られている問題も自分についてである。

攻撃的な人は、自分に対してかけてやりたい言葉を他人にかけることで―――他人を介して―――自己を罰する。悪意を受け取るとは、悪意を向けてきた相手が抱えている問題、否認しているある性質についての負担を共有してやることである。



私たちは防衛機制について、このような考え方を古くは仏教の中に見て取ることができる。釈迦による(原典不明)有名な、贈り物のたとえは悪意が自己に再帰するところの仕組みを説明している。

ある男が、尊敬を集めている釈迦に嫉妬して、恥をかかせてやろうと衆目のもとで罵ってやる。釈迦はひとことも言い返さずに罵詈雑言を聞き届けると、男に「誰かに贈り物をしたとして、その相手が受け取らなかったらその贈り物は誰のものになるか」と尋ねる。男は「決まっているだろう、それは贈ろうとした者に返ってくる」と答える。釈迦は同意し、「私が受け取らなかった悪口はあなたのものになるだろう」と答える。

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