失敗を極度に恐れる人
自我というものは、種子から芽が生えてくるように、個人のなかから生じてくるものではなく、まずはじめ、親との関係のなかで形成される。個人の存在全体のうち、親に認められた面だけが自我となる。子どもの自我とは、親が自分の子どもはこのような子どもだと思っているところのものである。親が認めないような面は子どもの自我には組み入れられず、排除される。子ども自身、そのような面が自分にあるとは自覚しない。(「ものぐさ精神分析」p352、岸田秀)
私たちは自分自身の性質、たとえば繊細だとか気が弱いとかいった要素をまるっと「それが個性だから」と肯定されるとき、自分で苦しんでいるある性質を「それを含めた自分」の一部として守り抜かなければならないというジレンマに見舞われる。弱さに苦しんでいる私は、強くなってしまうともはやかつての「私」ではない。この点で「個性」という考え方はつねに、他者との関係の中で形成されたものに過ぎない「自我」を、他ならぬわたし自身のアイデンティティと結びつけ、自縄自縛の状態に追いこんでしまうリスクを孕んでいる。引用した文章になぞらえると、「個性」は言ってみればある人の性格的特徴を「個人のなかから生じてくるもの」と前提にし、否定することのできない聖域に仕立ててしまうのである。
同様に、私たちが自己に固執するときにも、その固執している性質は自分から生じた「自分本来の」性質ではあり得ず、他者、たとえば親との関係性によって生じたものに過ぎない。しかしこの性質はとっくに自我に組み込まれ、「親のもの」から「自分のもの」になっているために、私たちは自己愛を通じてその作られた性質を保存してしまうのである。
まずは、親が認めなかった性質が自我から排除される過程について考えてみよう。たとえば親が、子どもが恋愛や性に興味を持つことを忌み嫌っているとき、親は子どもに「恋愛に興味を持ってはいけない」と言語化して伝える場合と、言外にその態度をもって伝える方法のふたつを取ることができる。親が気に食わない行動を取らないようにコントロールされている子どもの場合、親がただ「あなたがそんなことをするなんて考えられない」という首尾一貫した態度を見せることで子どものある一面は排除される。
恋愛に興味を持つことを言外に禁止されている子どもの場合、その禁止感情は親から押しつけられたものに過ぎないが、やがて自我を規定するものに組み込まれ、「わたしは恋愛を嫌っている」という感覚に置き換えられる。この感覚は、既に自我の一部になっているために、たとえ自立したり親と決別して元を絶ったつもりでも、感情や行動の原則の一部に保存されたままになる。
ここで重要なのは、自我から排除されるものは常に分かりやすく指示を与えられるわけではないということだ。親からの目配せを受けて「排除しなければならない」と推定された子どもの中のある一面は、ほとんど無意識的な過程で否認され、自分の中に存在しないもの、忌避すべきものとして刻まれる。
過保護が排除するもの
子どもを自立した意思を持つひとりの人間と認めず、意のままにコントロールしようとする過干渉に比べ、過保護は一見するとただの愛情深い関係に見える。過保護の親は、子どもがトラブルに直面する前にそれを解決してやり、子どもが傷つく前に傷つくかもしれない行為を中止させる。しかし、過保護の親が抱えている問題もまた過干渉と同様であり、子どもを自己の延長としか考えていない点である。過保護の親が子どもを「心配」し、子どもが傷つくのを見ていられないと考えるのは、精神的に子どもと離れることができず、子どもが傷つくのを自分が傷つくことのように恐れるからである。
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