悪いのは誰か?―自己責任の過剰と不足
わたしたちが何か困難な状況や問題に苦しんでいるとき、その問題の「原因」として位置づける対象にはそのままわたしたちの考え方が反映される。
そしてほとんどの場合で、わたしたちに困難をもたす「原因」を決定する方法論は主観的な解釈と客観的な解釈―――言い換えると、わたしたちの「意思」がどのように現実に影響を与えているかについて、過大視する見方と過小視する見方のどちらかに基づいたものとなる。
このふたつの不完全な方法では、主観性を過大評価すれば客観的・現実的な問題にぶつかり、客観性を過大評価すれば主観的な(つまり意思の)問題にぶつかるという逆説が生じる。
a.客観的な解釈
まずは、わたしたちの意思(主観的な問題)を誤差として見るような客観的なアプローチの極致が抱える問題を見てみよう。
ここでは、わたしたちの主観的な問題や意思の存在が度外視され、決定論的な因果律によってすべての結果があらかじめ定められているとされる。そうすれば、わたしたちの意思は、わたしたち人間の置かれている環境が決定する副産物に過ぎないということになり、続いて、わたしたちの意思の問題の「原因」はすべて外部の環境によって説明できることになる。
この考え方が直面する問題とは、わたしの行動や判断といった「意思」の原因として恣意的に外部にある事象が決定されること、そしてそれによって「自分のしようとしていること」という主観的な部分が不可視になってしまうことである。
△原因の利用
ここで見逃されてしまうのは、ものごとの「原因」として挙げられる事象、とくにわたしたちの「行動」や「判断」の原因として挙げられる「動機」とは、ほとんどすべての場合で「後付けで」設定され、そしてその「原因」の選択はわたしたちの好みによって恣意的に決定されてしまうということである。
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