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「延期された生」と憂鬱

今の生活は一時の仮りの生活であって、そのうち本当の生活がはじまると考える人がいる。彼にとっては、現在はそのうちはじまる未来の生活のための準備としてしか意味がない。彼は、たとえば現在の楽しみのために金を使うのを極端に惜しむだろう。彼の信ずる未来においては、過去のさまざまな悔恨がすべて償われ、埋め合わせられるはずである。しかし、そのような未来はいつまでたってもやってこない。彼はいかにも希望あふれる未来をめざしているようだが、実は、取り返しのつかない過去を取り返そうとむなしくあがいてるに過ぎない。食うものも惜しんで金を貯め、数百万円の貯金を残して栄養失調で死んだ人がいたが、彼もこの種の人たちの一人であろう。(「ものぐさ精神分析」、岸田秀)



これまで説明してきたように、人間の自我は一種の空洞になっている主体(現実界)のまわりに象徴的秩序(現実)という説明を与えて構造化するものであり、自我にとっての最大の問題は、精神の支えとなるべきはずの生そのものが、いずれ必ず訪れる死によってあらかじめ不安定なものとして限界を定められていることである。

このため、宗教や社会秩序といった文化にとっての大きな役割は、自我のこの不安定を支えるために生や死に対して永続的な説明を与えることになるが、今日のグローバル資本主義社会にとってその役割を担うものとはほとんどの場合で金銭である。

理屈からいって、金銭はあくまで生のために消費されるものであり、生より優先されるべきものではないが、私たちの間ですでに日常茶飯事的な光景となっているとおり、既に金銭はそれ自体が自己目的化しており、資本主義社会の市民は「生きるために金銭を稼ぐ」のではなく、「金銭を稼ぐために生きる」という本末転倒に陥ってしまう。

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