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”一発アウト”の文化 キャンセル・カルチャーに未来はあるか

「あなたを応援していましたが、今回の発言には失望しました。これでもうファンをやめさせて頂きます。」

アメリカでは有名人や影響力のある発信者の言動をめぐって公の場に引きずり出し、罰したり恥じ入らせたりする文化がコールアウト・カルチャーと呼ばれるが、なかでも発信側の個人や企業に「深く失望」し、「あなたは用済みだ」と再起不能の烙印を押すような文化はキャンセル・カルチャーと呼ばれる。

キャンセル・カルチャーの支持者の視点では、この文化は権力者やマジョリティに対する「弱者のカウンター」であり、キャンセル・カルチャーの有効性を問い直すことはそれ自体が「強者への加担」だということになる。

しかし、実のところキャンセル・カルチャーという手法はイデオロギーをまたいで日常的に利用されている。たとえば有力者の差別・偏見に基づいた発言、ハラスメントや搾取を発端としたキャンセルはリベラル的な立場と結び付けられるが、一方で保守的な立場から発言者が「キャンセル」されることもある。冒頭に挙げた「失望しました」という物言いはアーティストが政府批判のような左派的なイデオロギーを表明した場合に下される私刑の一例である。ここでは、「アーティストはイデオロギーを表明すべきでない」という一見すると「イデオロギー自体を制限する」要求が、実質的には保守的なイデオロギーを補強する目的で利用されている。

キャンセル・カルチャーの副作用はつまるところ、政治思想的立場をまたいで「意見を表明すること」、そして「対話」を中断し、発言者の存在を「なかったこと」にする部分にある。この力はそれを行使する「大勢的な正義」が既に正しいという前提に立っており、ある意味では「力の弱いイデオロギー」を抑圧するリスクも孕んでいるとも言える。



良い人間と悪い人間


心理学者のルーシー・ベレスフォードによれば、キャンセル・カルチャーはメラニー・クラインによる対象関係論の分裂(splitting)と関連付けて読み解くことができる。子どもの関係性の出発点である分裂ポジションでは、親の良い側面と悪い側面が統合されず、それぞれ分裂した状態で交互に立ち現れる。彼女による説明は以下の通りである。


小さな子どもが世の中を善か悪かに分けるポイントで、子どもは人や物事の裏表両面を統合したり容認したりすることができないのです。例えば、親が子どもに食事と食事の間にアイスクリームを食べるのをやめさせると、親は“すべて悪い”人になり、子どもは激怒します。一方、親が子どもにお休みなさいのキスをすると、“すべていい”人になり、子どもは満たされます。そうしたことを繰り返しながら成長する過程で、人は自分とは異なる見方をすることがあり、それでもいい人だとか、ちゃんとした人だという考え方を持つことができるようになるのがあるべき姿です。キャンセル・カルチャーはそれと同じようなニュアンスを許さないものです。
キャンセル・カルチャー:善を生み出す力なのか、言論の自由を脅かすものか?,Ella Alexander)



クラインの発達モデルでは、子にとっての親に代表される人間との関係性は「この人は善人か悪人か」という二元論に端を発する。部分対象という言葉で説明されるこの二元論は、「良いことをした人間は善人であり、悪いことをした人間は悪人である」というような素朴な認知によって成り立っている。この二元論では、「同じ人間の中に良い要素と悪い要素がある」という二つの現実が統合されず、したがって一人の人間も「良い人間」と「悪い人間」というふたつのイメージに分裂される。さまざまな経験によって、定められた善人と悪人がいるのではなく、同じ人間の中に良い要素と悪い要素がある、という統合がなされて初めて人間関係は「全体対象関係」に移行する。

キャンセル・カルチャーに象徴される二元論的善悪観では、この<部分対象>と同じように、ある人間が、あるいはある組織が「善人」「悪人」「良い組織」「悪い組織」のどちらなのかが厳密に見極められる。ある人間、ある組織に属する部分的な悪が、その人間や組織全体の「悪」という本質を証明するものになり、残りの善的な部分が「キャンセル」されるのだ。



部分的悪人は全体的悪人である


冒頭でキャンセル・カルチャーが「イデオロギーをまたいでいる」と表現したのは、キャンセル・カルチャーが依存する二元論がひとつの首尾一貫した認知の表裏一体をなしているからである。つまり善悪二元論は、ある対象を理想化し、「対象には良いところしかない」とする態度と、ある対象を脱価値化し、「対象には悪いところしかない」とする態度の両方によって成立しているのだ。

たとえば、キャンセル・カルチャーによるレイシズムに対する二元論的批判はこうだ。「レイシストはレイシストであり、過去に差別的発言をした人間は未来永劫レイシストである。したがって反省や更生の機会が与えられても意味がない。」

同じような態度をネチズンの「更生した不良」への視線の中にも見出すことができる。メディアは「更生した不良」をやたらと賛美するが、「はじめから真面目に生きてきた人間」は褒められない、云々。熟年離婚の危機から数十年来のモラル・ハラスメントを自覚したという壮年の男性のニュース記事に対し、「今さら自覚したところで遅い」「過去の罪は消えない」「どうせまたやりそうな顔をしている」といった辛辣なコメントが寄せられる。

二元論的な善悪観では、ワイン樽に入れられたスプーン一杯の泥水が全てを台無しにしてしまうように、過去の悪事や、人格・言動の部分的欠陥が人間全体の「本質的な」悪を暴露したこととなる。この前提では、悪を自覚し内省することのメリットは極めて薄いものとみなされ、むしろ人間や組織に内在する悪に対する「否認」が促されさえする。



"日本にそんな差別はない"


例として、2020年11月28日に公開されたNIKEのCM、<動かしつづける。自分を。未来を。>に対する人々の反応を思い出してみよう。

この反差別的なメッセージを含む広告に対する保守的なイデオロギーの反論は「日本を差別主義者の悪者」に仕立てようとしている、というものだった。ここにも差別を介した「善悪二元論」的な考え方を垣間見ることができる。私たちの国に部分的にでも悪が存在すれば、この国は悪い国だということになる(日本という全体があって、その一部に差別問題があるのではない。日本が差別国家なのだ)―――したがって、この国で悪いことは起きていないのである。どの社会でもナショナリズムは、ある程度はこのような否認と理想化を含んでいる。差別のない国は素晴らしいかもしれないが、そんな国はあり得ない。

しかし、このCMに対する反論は上のような素朴な理想化ではない別の展開を見せた。それはNIKEが中国ウイグル自治区の「強制労働を強く思わせる」境遇に間接的に加担しているというニュースを掘り起こしたことである。この強制労働には多くの巨大資本が関係しているとされるが、いずれにせよ事実なら「一方では人権啓発を、もう一方では搾取に加担しているダブルスタンダード」とする批判は一定の妥当性を帯びることになる。

事実関係はどうあれ、反差別的な視点では、このような二重規範に対する批判はSDGsウォッシングのような言葉を使って展開することが可能だ。しかし、結果から言えばこのウイグル自治区の強制労働は反差別視点での内省というより、「日本に差別はない」とする理想化のイデオロギーによって好んで援用されることになった。このCMの持つ反差別的なメッセージは、別に抱えている問題への不備によって「キャンセル」されたのである。

二元論的善悪観の限界は、企業にも人間と同じように「善い企業」「悪い企業」のような素朴な定義を要求する点にある。したがって、同じ企業に善的側面と悪的側面が存在するという事実を「同時に」認識することができないのである。

現実の企業には、あるいは人間には、悪いところもよいところも同時に存在するものであり、良いところが悪いところを打ち消すわけでも、悪いところが良いところを打ち消すわけでもない。そうでなければ、欠点を抱えた組織や人間がそれを内省し、改善するということは困難を極める。



無謬主義の発露


上の例では、部分的に悪いものは本質的に悪であるとする立場から「反差別的な主張が反差別的な視点から無効化される」というシニカルな対消滅が試みられている。つまり、二元論的な対立の磁場では、ある立場に帰属すべき内省的な視点が「反対の立場に対する加担」とみなされるのだ。

極端に保守的な信念では、社会の問題や欠陥を指摘することは―――それが社会の改善と発展に必要不可欠であるにも関わらず―――”愛国的でない”ものとみなされる。したがって、社会には何の問題もないとする姿勢(たとえば、この国に差別などというものはない)を体現しないメディアは不可避的に「愛国的でない」という烙印を押される。

一方で、リベラルや反差別の視点でも同様の問題は起こり得る。手段としてのキャンセル・カルチャーや、レイシズムに対する攻撃的な姿勢ははたして差別をなくすために「有効」だと言えるだろうか?この疑問は、リベラルや反差別の立場における内省的な視点でもあり得るという事実が度外視され、純粋に「反差別を阻害するもの、すなわちレイシズムの」イデオロギーとみなされる。二元論とは要するに、「善的なものは善的な要素しか含まず」「悪は首尾一貫して悪でしかない」という信念である。この信念においては、ある人間、ある組織や社会、ある手段に部分的に良いところがあり、また悪いところもあるという両面性が受け入れられず、「善的とみなされるものに対する部分的批判」が対立する悪の概念に吸収されてしまう―――善を妨害するものは悪に過ぎないのだから。

そして、どんなイデオロギーについても、その部分的な欠点や改善点を精査することが「対立するイデオロギーに加担」することとみなされれば、イデオロギーを盲信しない者が弾き出され、組織や集団の思想は自明に正しいものとなり、無謬主義に陥ってしまう。これが「二元論的な善悪観」、すなわち伝統的な勧善懲悪の態度が孕んでいるリスクだ。


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△素朴二元論では「善にブレーキをかける」ものが悪とされる



では、なぜ私たちはこれらのリスクを省みずに「善人が善人として描かれ」「悪人が悪人として描かれる」ことを強く望むのか。それは、勧善懲悪的な善ー悪の二項対立が私たちに「悪を糾弾する者は善である」という保証を与えてくれるからである。純粋な善と純粋な悪しか存在しない世界では、極めてシンプルに悪に反対するもの=善であり、悪に反対するものの様式に異議を唱えることは悪以外の何ものでもない。

この二項対立は人間性に対して「すべていい人」か「すべて悪い人」のどちらかに帰依を迫るものだが、部分的な過ちを認めることはすなわち「すべて悪い人」への墜落を意味するために、多くの人間は自分に内在する悪を否認し、「すべていい人」という自己像を守ろうとする。これはちょうど、組織内でミスをなくすために懲罰を設定したら「ミスを隠蔽する」傾向が強まることに例えられる。

差別を自認していない人間が「差別をやめる」ことは不可能であり、「私が差別をやめる」という一人称視点での改善のためには「差別を自認しにくい環境」を強化することは望ましくない。これは差別のような悪を物語化し、「彼に差別をやめさせる」という三人称で対処することのひとつの副作用だと言えるだろう。

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