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「お母さん食堂」のどこが問題なのか

政府見通しによれば、2020年の出生数は5年連続で過去最少を更新しての84万人台にまで落ち込む。社会が継続するための最低条件である出生数の漸減は、そのまま私たちの社会が緩やかだが確実に破滅へと向かっていることを示している。

しかし、この傾向は日本に限らずほとんどの先進国が共通して抱えている問題であり、環境問題とならんで後期資本主義国が直面する大きな矛盾のひとつである。

恐れ多くも私見を述べさせてもらえば、そしていきなり結論から述べてしまえば、この問題の根本は市場原理―――生産的か非生産的か―――が社会全体を覆い尽くしてしまったことにある。

つまり、生産的<価値を生み出す>か非生産的<価値を生まない>の軸で考えれば、生産的な人間とは何らかの形で金銭を発生させる人間のことであり、価値をうまない「子ども」とは非生産的であるばかりか過大な金銭・時間的負担を要求するものでしかない。20年近くを費やして教育を施された子どもはやっと労働者<生産的な存在>となるが、それまでに費やされたコストが何らかの形で補填されることはない。したがって、市場原理で売れない商品が淘汰されるのと同じく、非生産的な存在である子ども<労働者予備軍>及びその教育にかかる分野の<商品>の供給はやがて停止される。

市場原理の盲点は、その射程が交換価値を発生させる<労働そのもの>に限定されており、労働を可能にするもの―――子どもの存在や育児と教育、そして市場に労働者を送り出す「家庭」の役割を軽視ないし無視し続けた部分にある。つまり、労働それ自体には対価が発生するが、労働を可能にしているもの<家庭>の仕事は搾取され続けるので、その搾取対象が悲鳴をあげ、やがて破綻してしまう。

日本のフェミニスト、上野千鶴子は市場に搾取される外部としての<家庭>を<自然>と酷似したものとして指摘する。



フェミニストが「市場」の外側に発見した「家族」という環境も、「自然」と驚くべき類似性を持っている。「自然」と「市場」との関係および「家族」と「市場」との関係の間には、論理的なパラレリズムがある。「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている。「家族」という領域から「市場」は、ヒトという資源を労働力としてインプットし、逆に労働力として使い物にならなくなった老人、病人、障害者を「産業廃棄物」としてアウトプットする。ヒトが、「市場」にとって労働力資源としか見なされないところでは、「市場」にとって意味のあるヒトとは、健康で一人前の成人男子のことだけとなる。成人男子が産業軍事型社会の「現役兵」だとしたら、社会の他のメンバー、たとえば子供はその「予備軍」だし、老人は「退役兵」、病人や障害者は「廃兵」である。そして女たちは、これら「ヒトでないヒト」たちを世話する補佐役、二流市民として、彼らとともに市場の外、「家族」という領域に置き去りにされる。(「家父長制と資本制」、上野千鶴子)



市場は、あたかも尽きることのない資源であるかのように「外部」、すなわち<自然>や<家庭>から搾取する。そして、実のところその資源が有限であり、目減りし、汚染され、悲鳴をあげるものだということに突き当たったのが後期資本主義の行き詰まりである。

<家庭>という「労働力の資源」が有限であるということは、上野によれば、市場の原理の限界であると同時に、その市場を解明しようとしたマルクス主義の視座の限界でもあった。このために、市場と同じようにマルクスも、家庭が無限に<労働力の資源>を供給するものと無自覚のうちに規定してしまったのだ。



労働者階級の不断の維持と再生産とは、依然として資本の再生産のための恒常的条件である。資本家はこの条件の充足を安んじて労働者の自己保存本能と生殖本能とに任せておくことができる。(「資本論」マルクス1867-1969:3巻112)
「本能」とは市場から独立した、市場では関与することも統制することもできないような独立した変数のことである。労働力の再生産を、「本能」という定義できない不可知の変数に「委ねた」とき、マルクスは、労働力再生産のための条件を、市場の<外部>へブラックボックスとして放逐し、それによって資本家同様、家族の分析を安んじて放棄した。(同上)



市場の関与することのできない変数である「本能」、たとえば生殖への欲求とか愛情のようなものによって家庭が生み出す労働力資源が無限になるという前提はちょうど、資本主義がいくら自然を搾取しても自然自体の驚くべき回復力によって補われるだろうという楽観に対比できる。実際には市場は、見えない(あるいは見ないようにしてきた)かたちでこれらの「ブラックボックス」に関与してきたのであり、その影響が<市場>と<人類>に跳ね返ってきているのである。

市場原理は、<家庭>というブラックボックス化された環境の回復能力―――たとえば家事労働の搾取は「母の献身」や「無償の愛」といったイデオロギーによって正当化され続ける―――を頼り、ほしいままにする。家庭労働の過剰負担は、出生の継続的な漸減という形で<市場>にフィードバックされる。

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