希望に対するベーシックな考え方
望みが絶たれると書いて、絶望と読みます。人は何か得られないものがあること、あるいは得た何かを失うことによって絶望し、ときには死すらも願います。
ですから、絶望した人に話を聞くと、大抵はこういう答えが返ってきます―――お金がない、愛されない、夢が叶わない、尊敬されない、このままでは生きていけない。
「では、その何かがあればあなたは幸せになれるのでしょうか?」
と聞けば、もちろんそうだ、と答えます。
また、こういう場合もあります。
「幸福とは何か、それはお金を稼ぐことだ。愛されることだ。夢をかなえることだ。」このような確信を持った人たちです。
ところが、その目標、たとえば貯金額とか、理想の恋人を見つけるとか、有名になって無数の知らない人に囲まれるとか―――を叶えたとき、依然として「幸せ」になっていないことがあるのです。
お金を稼いでも幸せになれなかった人はこう言います、
「きっとお金がまだ足りなかったのだと思う。だからもっと稼いで幸せにならなければならない」と。
愛されても幸せになれなかった人はこう言います、
「幸せになれなかったのだから、本当の愛ではなかったのだと思う。自分を幸せにしてくれる愛を見つけなければならない」と。
私はときに、「もしかしてそれらを得ることはあなたにとっての幸せではないのではないか?」と思います。また、「それを得ることはあなたには、それか今の状況から考えて難しいのではないか?」と思うこともあります―――しかし、実際に口にすることはありません。それは、人にとって幸福とは何か、何を得ることによって人は幸福になれるのかという考え方はたいがい、大切なもので、それを否定することは時に怒りさえ生むと知っているからです。
さて、人はどうすれば幸福になれるのか、そしてどこを目指すべきなのか、という考え方を何と呼ぶでしょうか?それは哲学と呼ばれています。
今日、哲学について真面目に考えようとする人はあまりいません。それは、哲学は大抵の場合、自分が欲しいものを手に入れるために役に立たないからです。他人が欲しがっているものを、疑いもなく自分も欲しいのだと考える人にとって、必要なのはそれを得るためのノウハウだけなので、そうでないものには興味がわかないのだと言えます。
しかし、先に書いたように、哲学とはどうすれば幸福になれるのか、どこを目指すべきなのかという考え方のことで、もしその人が「私は哲学を知らないし、私は哲学を持っていない」と言ったところで、どの人も、どのようにすれば幸せになれるかと考え、それを満たそうとして生きているのです。例えるならば、子供が電車に乗っていて、その行き先を知らずに、窓から外の景色を見ているだけだとしても、その電車は必ずどこかの目的地へ向かっているのと同じことです。
この限りにおいて、哲学を持たずに生きている人、哲学を逃れて生きていける人はいないと言えます。
では、哲学を持たない人、哲学について考えない人が自然に持つ哲学とはどのようなものでしょうか?
哲学について考えないとき、人は必ずたったひとつの哲学、つまり「私は幸せになるために何かを得る」という哲学をまとって生きることになります。
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