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書くことがなくなった話

こんにちは、小野ほりでいです!この2年間ほど、毎週にわたってnoteというプラットフォームを利用して文章を書いてきたのですが、今になって区切りを入れようとしている理由を(興味を持たれるか分かりませんが)書いておこうと思います。ことわっておきますが、どうでもいい文章になるので読み飛ばしていただいて大丈夫です。

さて、以前からものすごくいい加減にライターという役割をこなしてきた私にとって、ここ数年での大きな変化はものごとの見方について多少なりとも勉強するようになったことなのですが、なかでも多めに時間を割いたのは心理学とか精神分析のような人の行動原理を探る分野だったように思います。

そのうちで、ひとつの根本的な立脚点というか岩盤のように強固な問題になっているのは、人間の持っている自己愛というものの不可能さです。つまり、人間の自己愛というのはまだ自分に保護を与えてくれる親と自分自身の境界が曖昧な時分の幻の記憶をもとに、その完全な存在と一体になっている自分の確固たる安定の根拠として遡及的に形成されるもののようなのですが、この完全さは明らかにそれが不可能になって久しい年齢の人々にも一種の幻想とか願望として残り続けるという問題です(確かフロイトは神の存在にもこの完全さへの願望が反映されているとか言っていたはず)。

実際にこのような推測が当たっているかはさておき、少なくとも、この完全さが不可能になっている以上、自己愛にとって現実が耐えがたいものであることには変わりなく、したがって私たちは自己愛を「①可能にしてくれるもの」あるいは「②不可能にしているもの」を必要としているということになるでしょう。


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