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過去の中の未来

ヴァイパーウェイブの作り手の多くは80年代~90年代前半生まれのミレニアル世代に属している。ビデオゲーム、ダイヤルアップ接続のインターネット、深夜のTVコマーシャル、きらびやかなショッピングモール等々、ヴァイパーウェイヴが参照するのは彼らが幼少時代に触れていた在りし日の失われた消費文化だ。加えて、ミレニアル世代はとりわけ「失われた未来」に属する世代である。彼らはもはや自分たちの未来を純粋に想像することすらできない。というのも、今や未来は彼らに対して深刻な生存困難性を突きつけるからである。
「ニック・ランドと新反動主義」現代世界を覆う<ダーク>な思想 木澤佐登志



「夢の反作用」で触れたように、「未来が失われた」時代、純粋に明るい未来を想像することが不可能になった時代の未来像はいったん過去を経由する必要に駆られる。「ニック・ランドと新反動主義」現代世界を覆う<ダーク>な思想(木澤佐登志)ではシティポップの再燃、ヴァイパーウェイヴで参照される8~90年代消費文化、「アメリカを再び偉大に」というドナルド・トランプのスローガン(80年レーガンの再利用)などを引き合いに、現代ではもはや想像不可能になった未来への希望がノスタルジックな「過去にあった未来」像をリサイクルすることで代替されている事例が網羅されている。

未来に対する無邪気な希望は80年代以前のサイエンス・フィクション作品の中にも冷凍保存されている。空飛ぶ車、銀色のスーツ、流線型のビル群といった「過去的な未来」像には「テクノロジーが人類を幸福にする」という楽観が多分に含まれているが、今やSFの扱う未来はもっぱらディストピア/ポストアポカリプス的な荒廃した未来像であり、テクノロジーの豊かさはほとんど常にその代償とセットで描かれる。

この、「テクノロジーがいずれ私たちを幸福にする」というぼんやりとした楽観を徐々に奪っていった原因は、他ならぬテクノロジーの進歩それ自体に問うしかない。たとえば、藤子・F・不二雄作品に登場する「コピーロボット」を思い出してみよう。登場人物がコピーロボットの鼻を押すと、ロボットがその人物になり代わり、宿題なり仕事なりをやってくれるので、彼は自分の時間を自由にしてその恩恵(宿題をしたという事実や仕事の対価)を受け取ることができる。

そして、このコピーロボット程度の機能を有する技術は生まれつつある、というよりも既にいくつか僕たちの周りに存在している。たとえば無人レジは接客アルバイトの代わりに仕事をするし、Amazonの倉庫ではロボットが人間の代わりに荷物を運ぶ。またいずれは人工知能が自動運転をしてタクシー運転手の代わりに働くだろうし、コンサルタントより適切な経営アドバイスを弾き出すかもしれない。ところがコピーロボットの場合は前提として、仕事を代行した人物にその労働成果が還元されるはずだった(つまりテクノロジーはわたしたちを自由にした)のだが、実際にはこれらのロボットは資本家の管理下にあって、労働者は職の口を失い、むしろロボットの維持費と人件費を天秤にかけられて競争に晒されることになったのだった。これは「テクノロジーがわれわれを幸福にする」のではなく、テクノロジーが「われわれから役割を奪う」というもっと自明で説得力のある現実を突きつけたのだった。

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