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自分の被害者性の扱い方―――悲観主義の袋小路

「平気で生きるということ」という文章では、主に絶望や悲観主義に沈んでいる精神を持ち直す方法について扱っています。

自分自身ではなく誰かがそのような状態におちいっており、それを励まそうとしているところを想像してみてください―――ここでは、2通りののアプローチが考えられると思います。ひとつは、あなたを落ち込ませている事態はつまらない些事であり、捉えようでどうにでもなるというアプローチです。もうひとつは、あなたはたいへんな問題に巻き込まれているが、それはどうしようもない問題であるので、あなたに責任があるわけではない、とするアプローチです。

今回は、少し脱線するかもしれませんが、この二つのアプローチの扱いについて触れておきたいと思います。



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△機械としての感情


さて、この二つのアプローチで大きく分かれているのは、人間の幸不幸のような感覚を左右する要素として、主観的な部分(考え方やものごとの捉え方)に重きを置いているか、それとも客観的な部分(環境や外部の抗えない要素)に重きを置いているかという点です。

この違いは、「自由意志は存在するのか」というような哲学的な問いにまで繋がっています。もし人間の思考が機械のように、一定の入力を受けたのならば必ず一定の出力を返すものであれば、人間の幸不幸を左右するのは純粋に環境や外部の問題だといえます。一方で、人間の主観的な部分、環境や外部の問題を「どのように受け取るか」という自由意志による振れ幅を大きく評価すれば、同じような条件にある人でもものごとどう受け取るかによって幸不幸がはっきりと分かれるということがあり得ます。



このふたつのアプローチが実際にどのように作用するかについて分かりやすく考えるために、具体的な例を挙げてみましょう。

たとえば、いわゆる毒親理論のように、「わたしはひどい親に育てられたのでひどい人間になり、不幸になった」というような事実認識は個人に対してどのように働くでしょうか。

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