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偽悪する人、わざと嫌われようとする人

私たちは、他人に嫌われることを極度に恐れる人が、見かけ上はむしろ他人に積極的に嫌われるように振る舞ったり、あるいは偽悪して悪印象を与えようと試みるのをしばしば目にする。むやみに悪態をついたり、冷笑的に振る舞って顰蹙を買う人は、たいていの場合は嫌われることを恐れるという繊細な性質を備えているのである。

同じような矛盾を、自分の(劣等感)コンプレックスをひけらかして、他人に言及されるまえに自虐する人にも見て取ることができる。コンプレックスに苦しんでいる人は、本来その部分に触れられることを恐れているはずであるのに、自らコンプレックスに触れ、傷をあさることによって、意図せずに他人がその部分を踏みにじることを防ごうとする。

結論から言えば、他人に嫌われることを何よりも恐れている人ほど、偽悪的に振る舞い、「嫌われる理由」を積極的に提供しようとするのは、自分の「本意ではない振る舞い」で他人に「嫌われる」ことによって、「本当の自分」が嫌われるのを防ぐためだといえる。この人にとって、「偽悪した自分」はにせの自分であり、本来の自分ではない―――したがって、自分が誰かに嫌われていることがふいに分かったとしても、嫌われているのはあくまで「にせの自分」であり、「本当の自分」は心の深い部分で安全に守られたままなのである。



自己はにせー自己ないしは自己群の行なうところに自分が参与しているとは感じられず、これらのにせー自己の行動は、ますます「にせ」で、無益に感じられるようになる。自己は、他方、自分だけで閉じこもり、自分を<真の>自己とみなし、ペルソナを「にせ」とみなす。その人は自分の無益さを、自発性の欠如を訴えるが、彼自身が自発性の欠如を助長し、したがって無用感を増大させているのである。(「ひき裂かれた自己」ーR・D・レイン」)



「真の自己」を守るためのスケープゴートとして「嫌われるための自己」を用意し、他人に嫌わせるというマッチポンプの手法は、 「我慢」し続けたときに起こることー分裂について で触れたような(レインの言う)分裂という防衛手段にあたり、用意された「嫌われるための自己」は「にせー自己」にあたる。

真の自己とにせー自己の分裂ははじめ、にせー自己(つまり行動し、他者と関わる現実の自己)がどのように振る舞っても真の自己が「参与していない」という前提によって真の自己が傷つくことから守る目的があった。ニセの自己は、真の自己がまさに恐れていることを体現し、代わりに傷つくことによって、真の自己がそれを「体験」することを防ぐ―――たとえば、「真の自己」が他人に嫌われることを防ぐために、ニセの自己が他人に嫌われる。「真の自己」が悪事を働くのを防ぐために、ニセの自己が泥をかぶる。

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