タイトルが最適化する話
資本主義的であるということは、主観から客観への作用、ものごとの価値が曖昧な感性から数字へ置き換える不可逆な流れに置かれることを意味する。
有用なものを残し、無用なものを省くというシンプルなルールのもとに、あらゆるものがその贅肉を削ぎ落とし、価値のある肉体へ、そしてやがては価値そのものへと変容する”最適化”こそが資本主義社会が継続して進行する業務であり、その流れには人間たち自身でさえ抗えない。そうして、この流れを牛耳っているのは誰かの意図による抑圧ではなく、僕たち自身の欲望と、その欲望に対する一種のあきらめだ。
「有用なものしか存在してはいけない」と設定したとき、言うまでもなく、いかなる存在も自己の”有用性”を主張することになる。かくかくしかじかで私は有用である、と説得することで、自己の価値を認めさせ、それによって存在の許可を乞う―――これが資本主義における淘汰ルールと個人の関係性である。
しかし、他ならぬこの説得によって自己は、有用と無用が渾然一体となった存在から、価値を切り売りする”商品”へと貶められるのである。なぜなら、それまで金銭によって扱われなかったものに対して対価が支払われるということは、今度はそれを切り売りして生きなければならないということを意味するからだ。つまり、価値の発見は、その存在が許されるという喜ばしい面だけでなく、それが”商品”であり、”消費”される未来が確約されることも意味し、そして価値の運命として、競争やダンピングの危険に晒される未来をも暗示する。
マーケティング、つまり人が何を求めているのかを探求することが、この価値の最適化のプロセスを加速することは言うまでもない。人もモノも、文化も、「消費されるもの」に進んでなることで、自らその本質を失い、そして競争の渦に呑まれてゆく―――これが抗えない流れだと考えることが、資本主義のリアリズムだ。
”有用性”のもとに最適化された文化はいずれも、奇妙にポルノグラフィックなイメージを醸し出す。ポルノグラフィックであるということは、ここでは性的とか下品というよりも、「必要な部分をおいてほかに何もない」という直接性と無私性を強調する。
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