【新型コロナウイルス】を軽視した2020年を振り返る
新型コロナウイルスとともにあった2020年に私たちが知ったただひとつの事実は、よく言われるように、たとえ人類共通の危機にあっても人々は協調するどころか分裂し、仲違いするということだった。私たちの敗因は、ウイルスという見えないリスクへの認識を統一し、それに立ち向かうための共同の文化を形成できなかった点にある。
ウイルスのリスクは、まずその多寡の評価において分裂しており、続いてその[責任]の所在―――発生源である外国にあるのか、対策を怠る政府にあるのか、身勝手な市民にあるのか、あるいは[騒ぎ立てるマスコミ]にあるのか、といった具合に分岐する。
しかし、これらの「イデオロギー的な対立」は表層的なものであり、むしろこのリスクを「イデオロギー的に見る」こと自体がひとつの罠にはまっている。この前提を得るためにそもそもの「文化」の意義を振り返ってみたい。
自然には、人間のいかなる強制もあざ笑うようなさまざまな要素が存在する。大地は揺れて口を開き、すべての人間と、人間のすべての営みを埋葬してしまう。川の水は氾濫してあふれ、すべてを呑みこんでしまう。嵐はすべてのものを吹き飛ばしてしまう。さらに疾病というものが、[ウイルスなどの]他の生物からの攻撃であることは、ごく最近になってから認識された事実である。そして死という悲痛な謎にたいしては、これまではいかなる薬も発明されていないし、おそらく今後も発明されることはないだろう。(幻想の未来/S.フロイト)
人間の日常や現実は自然界の中に間借りしている生命という基盤、つまり暴力的で理不尽な[自然の猛威]に対して常に晒されうる不安定な器に載せられているに過ぎない。そして文化は、その決定的な寄る辺なさに対して人間が講じることのできる手段である。
最初の第一歩は、自然を擬人化して考えることだ。これだけでもきわめて大きな恩恵が生まれるのだ。人間は非人格的な力や運命には近づくことができない。これらは永遠に他なるものとしてとどまる。しかし自然の力もまた、人間の魂と同じように情熱に燃えているのだと考えると、ほっとするのだ。死というものは自然に発生する出来事ではなく、悪しき意志の暴力的な行為だと考え、自分をとり囲む自然のいたるところに、人間たちの社会が作りあげているのと同じものが存在するのだと考えることで安心するのだ。それは不気味なもののうちにあって、なじみのものに出会ったように感じることであり、意味のない不安に心を悩ませなくてもすむようになるのである。[中略]つまり自然の力に哀願したり、なだめすかしたり、抱き込んだりすることができるのである。(同上)
この引用文で説明されているのは、自然現象(特に災害)に対する宗教的な解釈、あるいは民話のような土着の文化がどのような機能を担ってきたかである。現代に比較すれば、科学が未発達の文化での人類は[自然の猛威]に対してはるかに無力であり、ほとんど成す術のない状態に置かれていたといえる。しかし、人間の生命基盤がこのきわめて不安定な「自然」に晒されていると考えるより、人間が感情を持った自然と「取引」できる―――つまり神に祈ったり、精霊に捧げ物をすることでその暴力を軽減できると考えるほうがはるかに精神的な負担を軽くすることができる。
これらの文化のうち、何らかの実益の兼ねられている教義ではないもの、つまり「精神的な負担」を軽くするのみで、実際には効果のないものは、科学の発展にともなって迷信とされ、多くは廃棄されたが、むしろ現代にとって盲点になったのはこの「精神的な負担」にかかる問題である。つまり現代人は、宗教や迷信の力を軽視したばかりに、宗教や迷信じみた方法でない何かで[自然の猛威]を擬人化することになり、結果的には陰謀論のような混乱をきたす考え方にさえ頼らざるを得なくなるのだ。実のところ、ウイルスというリスクにまつわる多くの信念はこれを軸に考えることで理解できる。
リスクの合理化
見えないリスクの合理化という傾向を理解するために、ざっくりと「現実」と「現実界」という異なる概念を導入したい。
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