肯定と共感のサークル
誰もが気軽に「意見」を発信することのできるインターネットの発展は、個人同士の対話を促進するものと思われた。しかし実際にネット上で繰り広げられたのは、あらゆる個人が同じイデオロギーで団結し、その信念をますます強固にする一方、異論の存在を否認し、ますます自我に引きこもるという光景だった。
ネット上の言論では、それぞれの集団がそれぞれの真実を擁立する。集団は外部の真実との接触を避け、「肯定と共感」で構成された温かいコミュニティを形成する。外部との接触は、対話や取り入れではなく否認による連帯関係の確認のために行われる。つまり、異なるイデオロギーとの接触はその存在を否認するための攻撃的な態度によって実現される。大まかに言えば、このような形式が脱真実(post-truth)時代の「対話」形式である。
日本では、対話とイデオロギーが「肯定と共感」の時代に突入したひとつの目印として2017年の今井絵理子議員による「批判なき選挙、批判なき政治」宣言が挙げられる。言うまでもなく、民主主義ではある主張に対して批判や異論の権利が許されることが前提になっており、批判なき政治とはディストピア的な全体主義やファシズムを直接的に意味する。ところがこの新しい時代においては、批判や異論・反論といった対立的な概念は単なる無益な争いとして扱われる。こういった対話はあたかも、離婚寸前の両親の言い合いを見守る子どものような外傷的な感覚で受け取られるのである。
「批判」が純粋な悪意や否定的な意味で捉えられるようになったことで、複数の異なるイデオロギーの対話は実質的には不可能となった。外部からの指摘や異論は単なる敵対的行為と受け取られ、攻撃や糾弾の対象となる。自らの意見を研鑽するための異論はアレルギー反応のように排除され、人々はかえって自らのイデオロギーの中に閉じ込められることになった。
自我と一体化したイデオロギーは、個性とか言論の自由といった概念と結び付けられ、「私の意見は守られるべきである」という漠然とした保護意識が生まれる。ネット上の対話で特徴的なのは、言論の自由がある意見とまた別の意見というそれぞれの相対的な立場を保証することで対話を可能にしているのではなく、対話を試みる外部に対して「私の言論を侵害するな」といきなり接触から撤退してしまう「繊細な」傾向である。
この「繊細な」対話形式は同時に攻撃的な態度にも繋がっている。つまり、私の意見が誰かに変えられないように「言論の自由」に訴えるか、反対に異論や批判という恐ろしい他者の存在を否認するために「攻撃的」な態度に出るかという違いがあるのに過ぎない。
この「対話を恐れる繊細な自我」はどこから来るのだろうか。
偉大な母
「母性とは何か」と言われれば恐らくだいたいの人はその問いに答えられるだろう。母性は肯定するものであり、共感するものであり、包容するものである、と。母性は子どもがどんなものであれ、何をしたのであれ、受け容れ、肯定し、無条件の愛情を与える。
では、父性はどうか、と聞かれれば僕たちは答えに困ることになる。伝統的な家父長制では、父親は家庭では何もせず特権的に甘やかされてきた。その代わり、父は社会に出て金を稼ぎ、一家の大黒柱としての威厳ある振る舞いを許される。家父長制における父親は、家庭内の役割を放棄して失われた権威の危機を、自分が「社会に出て稼いでいる」という事実を提示することで免除されてきた。<誰がメシを食わせてやってると思っているんだ。>
しかし、父性がその存在意義を社会的な役割に依存してきたツケが回ってくることになる。男女同権やリベラルの到来だ。新しい社会では、男性の聖域として守られてきた職業的特権が切り崩され、女性に開かれることになる。「社会的な役割は男性にしか負えないものである」という欺瞞が暴かれ、実際には女性にも担えるということが明かされてしまう。
「社会的な役割は男性にしか負えないものである」というブラフは、当然「子を産めるのは女性だけである」という事実に対抗するものとして築かれてきた。父権主義は―――女性にしかできないことがあり、男性にはそれがないという不均衡に対する応急処置だったと言える。母と子の強烈な結びつきから疎外されている父親にとって、家庭が自分なしに存在し得ないという前提は父という存在意義を根本から支えるものだった。
父権幻想が崩壊し、女性が社会的能力を獲得する一方、<特に日本では>家庭内における母性神話は根強く残ったままであり、家事や育児の能力は母親のほうが優れているものとされる。母はますます偉大になり、いっぽうで父は純粋に母親の下位互換的な存在となってしまう。子どもにとって、愛着と尊敬の対象としての万能な「母親」のみがあり、父親は最初から期待されていないか、死んでいる状態になる。
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