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「ほんとうの私」こそが私を苦しめる

現代の心理学と自己啓発、精神医学から文化まで根深く浸透しているひとつの信念として「自己実現」というものがあり、この概念は永らく当然のものとして扱われ続けてきた結果不可視の前提となり、「信念であること」それ自体を度外視されつつある。

自己実現の信念とは、ひとことで言えば人間個人の本来的な欲動や性質は社会や他者、集団の利害関係と一致しており(するはずであり)、両者の間に摩擦が起こるとすればそれはその個人が「にせの自己」に基づいて思考なり行動しているからだとする一種の性善説的な考え方である。この考え方は一般的に「夢」や「個性」といったポジティブな観念の基礎として広く普及しており、多くの人にとっては馴染み深いイデオロギーだといえる。

岸田秀によれば、この「自己実現」的信念のルーツはユング、ライヒ、フロム、ホーナイなどフロイト以後の精神分析家に辿ることができ、西洋の精神分析がこの思想を形成した理由は神という外部の支えによって成立していたそれまでの西洋的自我が信仰の薄れによって揺らぎ、その支えを自己の内部に求める必要性が生じたためだという。ただ、この場ではそこまで深入りせずに私たちに理解できる範囲にとどめておいて、以下のホーナイの言葉の引用をもって「自己実現」の必然性の根拠としておきたい。



フロイドが仮定したように、自己破壊衝動が本能的なものであれば、どうしようもないという烙印を押されることになる。本能的なものとみなせば、この衝動は一定の心理的条件から生じるのではなく、その条件の変革によって克服することはできない。この衝動と作用は人間性に属するものとなる。したがって、人間は、結局、自分自身を苦しめ破壊するか、他を苦しめ破壊するかのどちらかを選ぶしかなくなる。(Neurosis and human grouth1950,p373)(「幻想の未来」、岸田秀)



第一次世界大戦を経て、晩年のフロイトが戦争とその神経症患者の中に見たのは無意識の不気味な「死の欲動」であり、この不気味な本能の存在は神という道徳的な支えを失った人類がどのように振る舞うかについて絶望的な示唆を残すものとなった。結果的に、フロイトが危惧したとおりに人類は第二次世界対戦におけるファシズムの勃興や大量虐殺に形象される破壊の時代に突入していくことになったが、この凄惨な現実があってこそ人間の中に「無垢な本質」が存在するという信念的な支えが必要になったと言えるかもしれない。



個性至上主義の「穴」


自己実現信念のあらわれは、心理学の中でも自己啓発に寄った分野で顕著にみられるが、もっと親しみのある形では「夢はいつか叶う」というような文化的表現にも噛み砕いてこの信念が込められている。

自己実現信念の前提は、前述のとおり個人と集団・社会の利害が一致していること、つまり自分の願望や欲動に忠実であること(現代的に言えば「ありのままの自分」「ほんとうの私」であること)は必然的に同時に集団の秩序にとっても利益をなしているということを意味している。それはつまり、「真の自己」とは必ず集団や社会、他者を利するものでなければならず、遡及的に「集団や社会の利益とならない個人の欲動や性質」は「にせの自己」として疎外されるべきものであると定義されるということである。

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