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サブカルはどこへ消えたか

たかだか十数年前まで、私たちはSNSやTwitterの「いいね」だの「フォロワー数」が何の意味もない幻だと”熟知”していた。しかし、そのたった十数年の間に、そこには信じられない速度で”意味”が付与され、一部ではもはやそれを除いては他に何も意味をなさないと言わんばかりに扱われるものになった。

意味のないものに意味が付与されるのに伴って、それまで意味を持っていた”何か”がその意味を喪失するという事態にも私たちは遭遇した。たとえば”サブカル”と略されるもの―――つまりかつてアニメやオタク文化までを含んで包括されていたメインストリームに抗う文化群のうちから、いまではメインストリームと化したアニメーオタク文化を除いたもの―――が表現されてきたコンテクストは急速に不可視化され、主流でない文化はそもそも何に抗っていたのか、どのような人々にどのような思いで支持されてきたかについて私たちは知る由もなくなりつつある。

「いいね」「リアクション」「フォロワー数」といったネット上の指標は、人物と表現物への愛好と支持の結果を平準化し、何人がそれを好み、反応したかという客観的な数値に置き換える。その過程では、愛好や支持が意味しているそもそもの主観性―――それがなぜ好まれたのか、なぜ支持されたのか、どのような文脈で、どの程度―――が省略され、結果としての愛好が記号化される。ひとつの愛好はそれがどのような思いによって形作られているかに依らずひとつの愛好に過ぎず、ふたつの愛好には劣る。結局のところ、私たちが観測できるのは「結果としての」愛好である。

「資本主義リアリズム」では、映画「トゥモロー・ワールド」を引き合いに出して似たような現象に言及している。不妊症が蔓延し、もはや文化を遺伝する後世代そのものがなくなった世界の発電所に、ミケランジェロのダビデ像、ピカソのゲルニカ、ピンク・フロイドのブタの風船といった過去の文化的遺物がそのコンテクストを失って陳列されている。



文化がこのようにミュージアムの遺物に変化してしまうことをみとめるには、なにも『トゥモロー・ワールド』における近未来の到来を待つまでもない。資本主義リアリズムの力はある程度には、資本主義がこれまでの歴史のすべてを包摂・消費してきたその手法に起因する。宗教的偶像であれ、ポルノグラフィーであれ、あるいは『資本論』であれ、あらゆる文化的オブジェクトに貨幣価値を付与できる「等価体系」の作用のひとつなのだ。この作用の働きの鮮烈なイメージを得るためには、大英博物館を歩き回り、本来の生活環境から奪いとられ、まるでプレデターの宇宙船のデッキにでも並べられたように蒐集された陳列品を眺めてみればよい。文化的実践や儀礼が単なる美学的オブジェに変容されることによって、かつて各々の文化が信じていたものは、客観的に皮肉られながらアーティファクトと化する。(「資本主義リアリズム」p15、マーク・フィッシャー)



「トゥモロー・ワールド」ではかつてファシズムの残虐行為への苦痛と怒りを叫んだピカソのゲルニカが、今やただの壁の装飾品と化している。”この絵画にも、すべての可能な文脈や機能を奪われた上で、「偶像」のステータスが与えられる。もはやそれを鑑賞する新しい視線をなくして、その力を保つことのできる文化的オブジェは存在しない。(同15p)”

ここで言われている「等価体系」の作用は資本主義においては貨幣価値を媒介して働くが、ネット上では指標化された「人気」という概念が似たような作用をもたした。貨幣価値があたかもそれを唯一の価値と錯覚させ、人間に主観的価値を見失わせるように、「人気」という唯一の指標があるものそれ自体の存在意義に取って代わってしまう。私たちはすでに「SNSフォロワー10万人」を喧伝する政治家や、「合計いいね数100万突破」をうたう書籍の誘惑を通じてその価値観念がもはや無視できる”幻”ではなくなったことを知っている。ここでは何らかの主観的原因によって愛好や支持を集め、人気になっているのではなく、「人気だから支持する必要がある」という因果逆転が起こり得るのである。



脱イデオロギー


貨幣価値が唯一の価値であれば、「商品」は消費のために創られたもの以外ではあり得ない。あるいは”人気”が創作物の唯一の価値であれば、逆転してすべての創作は人気と消費のために行われたことになる。そこで創作物、表現物は主義主張や問題提起ではなく消費者の満足とその支持のためにあるものという前提が生まれる。

ピカソのゲルニカから反戦という主義主張が丁寧に脱色され、誰でも「消費」できる文化生成物に変えられるように、過去の文化は骨や臓物を取られるようにイデオロギーを脱色され、「万人向け」の商品として受け入れられる。ネット上ではこれと同様に、現役の作家・芸術家に対しても顧客に対して「万人向け」の商品を作る態度が要求されるようになった。つまり、芸術や創作物とは受け手が安心して「消費」できる娯楽、イデオロギーが丁寧に取り除かれた商品として存在するべきであり、その商品の生産者である芸術家は何も「主義主張」をすべきではないという客体化が起こったのである。

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