成り上がりコンプレックス
先日、タイムラインに上のようなつぶやきが漂着して来ました。皆さんは、これを読んで「その通りだ」と思うでしょうか、それとも「うーん…」と感じるでしょうか。個人的な話をすれば、数年前までの自分なら「その通り」だと思っていただろうし(というより、まんまこういう文章を書いたことがあります)、今は「怖いな」と感じる部分もあります。
まず、この文章に関して私たちが賛同すべき部分をあげると、自分に起きている問題をすべて環境や境遇に帰結していると一種の宿命論的な諦観が身につき、自分の行動や問題に対する関わり方という主体性にかかる部分に責任が持てなくなるということがあります。自分が直面しているものを「大きな問題」として構造的に捉えるほど、それに対して無力な自分を慰めることができるので、実際に「自己正当化のために」社会問題をあげつらっている人がいてもおかしくはないと思います。憶測ですが、この文章自体もネット上で差別や階層問題に言及している人に向けて書かれたものではないでしょうか。
一方で、では問題をすべて個人に帰結すればいいのかと言うと、これが地獄のような自己責任論まで地続きになっていることは疑いようもありません。つまり、私たちは社会や環境がどのようなものであれ、自分にできることをするしかないというのは個人視点では正しくもあるのですが、だからといってあらゆる問題を個人の物語として扱うと社会、集団、環境の抱える問題がいつまでも野放しにされることを意味します。社会に属している人間は個人としてだけでではなく、社会に対しても多少の管理責任を持っているのでこれはよくありません。
属性による差別や階層構造によって再生産される格差は、今ではどこの国でも主要な地位を占める社会問題ですが、こういった問題は明らかに個人の主観が介入すべきではない性質のものであり、社会学のような巨視的な視点で解明される必要があります。
2020年の東大入試では、国語の問題が「『神の亡霊』6 近代の原罪(小坂井敏晶)」という文章から出題され話題になりました。なぜ話題になったのかというと、東大という最高学府で<メリトクラシー>という問題が扱われたからです。
この問題での引用部分は、いきなり「学校教育を媒介に階層構造が再生産される事実が、日本では注目されてこなかった。」というセンセーショナルな一文から始まります。この文章では、「学校教育は出来レースだ」という断言とともに(念を押しますが、東大の入試問題です)、メリトクラシー(能力主義)という言葉の意味が逆転していくさまが丁寧になぞられています。簡潔にまとめると、メリトクラシーは人間を階層ではなくその能力や、出した結果に応じて扱うという「機会の平等」をうたった概念です。ところが、学校教育の例では私たちは親の年収が子どもの最終学歴と正比例しているという身も蓋もないデータについて知っています。表面的には、教育の機会は誰にでも与えられ、同じ教室に机を並べ、同じように勉強していますが、実際には難関校を目指す学生はプラスアルファとして高度な教育を受ける機会があり、逆に収入の低い学生は学費の問題で進学を諦めざるを得ない場合があります。「お兄ちゃんは進学したけど、お前は女の子だから適当に就職して結婚するよね」という家庭内での性差別・圧力を受けるかもしれませんし、進学塾や図書館どころか「都会に出ていく」という発想すら持つことが出来ない田舎に生まれるかもしれません。
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